【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

《怜央視点》

手洗い場の水は冷たい。

指先から肘まで、決められた回数だけ洗い上げていくと、外のざわめきが一枚ずつ剥がれていく。
記憶の空白も、屋敷の広さも、久遠家の事情も、この場所ではどうでもいい。

オペ室に入った瞬間、世界は単純になる。
生かすか、死なせるか。
必要なのはそれだけだ。

「おはようございます、久遠先生」

看護師、麻酔科医、人工心肺技士、助手の若手医師たち。
全員の声が重なる。

「おはよう」

返すのは一言だけ。
それで十分だ。

台の上には、十歳の男児。
一度の迷いが、そのまま致命傷になる。

「タイムアウト」

全員の手が止まる。

「症例確認。再開胸、右室流出路再建。リスクは胸骨直下の右冠動脈損傷。手順は予定どおり、大腿確保先行、体外循環スタンバイ。胸骨は上から一気に入らない。鋸は浅く、途中で切り替える。質問」

「ありません」

返答は揃っていた。

「じゃあ始める。ヘパリン」

「投与します」

「ACT確認後、右大腿から送脱血ライン。エコー、位置を見て」

「はい」

「麻酔、圧の変動は細かく言って。数字が落ちる前の違和感を拾いたい」

無駄な言葉は使わない。
余計な鼓舞もしない。
必要な情報だけを最短で渡す。

だから怜央は迷わない。
迷えない。

術野へ視線を落とす。

胸骨の正中にメスを入れる。
ほんの数センチ。
慎重に進める。

「ガーゼ」

「どうぞ」

胸を閉じるころには、手術室の空気は別の静けさに変わっていた。
緊張が切れた静けさじゃない。
一つの山を全員で越えたあとの、深い静けさだ。

最後の縫合を終え、怜央は手を離した。

「終了。ICUへ」

張りつめていた室内に、ようやく人の呼吸が戻る。
それでも誰も大きく騒がない。
手術が終わったあとの空気は、いつも少しだけ礼拝堂に似ていると、昔誰かが言っていたのを思い出した。

器械の音が少しだけ遠くなる。
ガウンの中にこもっていた熱が一気に引いた。

事故以来、初めてのオペ。
感覚は鈍っていない。
判断も、手も、まだ使える。

そう確認したはずなのに、胸に最初に浮かんだのは術野ではなかった。

今朝、緊張した顔で「行ってらっしゃい」と言った梨音。
待っていると言った、あの声。
終わったと、真っ先にあの顔へ伝えたかった。

自分でも笑える。
手術を終えた直後に考えることが、それか。

だが、もう否定する気にもなれなかった。