【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

「大丈夫ですか!」

近づくと、車体の前方から白い煙が細く上がっていた。雨に打たれて薄まりながらも、焦げたゴムとオイルの匂いが鼻につく。私は震える指で一一九番を押し、場所を伝えた。

オペレーターの落ち着いた声が耳元で響く。

「車内に人はいますか」

「います、運転席に男性が一人。意識は……確認します」

「火の気や強い煙は」

「少し煙が。雨なので炎は見えません」

「無理に動かさないでください。呼びかけて反応を見てください」

私はスマホを肩と耳で挟み、運転席を覗き込んだ。

エアバッグが膨らみきり、男の顔の半分を隠している。額から血が流れ、雨水と混じって顎先へ落ちていた。高そうなスーツはシートベルトに押しつけられ、濡れた髪が額に張りついている。

「聞こえますか」

反応はない。

鼓動がうるさい。怖い。怖いけど、見なかったことにはできない。

助手席側へ回り込むと、そちらのドアはかろうじて開いた。私は傘を放り出し、冷たい雨を背中に浴びながら車内へ身を滑り込ませる。

「すみません、救急車呼んでます。聞こえますか」

今度は、微かにまぶたが震えた。

暗い瞳が、ゆっくり開く。

その目に射抜かれた瞬間、なぜか息が詰まった。痛みで朦朧としているはずなのに、視線だけは妙に鋭い。人を一瞬で測るような、冷えた刃みたいな目。

どこかで見たことがある、と思う。
でも、この状況では思い出せない。

「……救急、は」

声は掠れていたが、はっきりしていた。

「呼びました。もう来ます」

「……そうか」

それだけ言って、彼は小さく息を吐いた。普通なら取り乱してもおかしくないのに、驚くほど冷静だ。

彼の視線が足元へ落ちる。運転席の下に脚が挟まっているらしい。私は不用意にシートベルトへ手をかけて、彼に止められた。

「待て。……脚が……固定されてる。先にシートを」

「え、あ、はい」

反射的に従う自分がいた。

彼は呼吸を整えながら、「レバー、右」と短く指示を出す。私は手探りでシート横のレバーを引いた。シートが少し後ろに下がり、圧迫が和らぐ。彼の眉間の皺が、ほんのわずかに薄くなった。

「……ありがとう」

「しゃべらないでください」

「その言い方……医者みたいだな」

「違います。元記者です」

「そうか……最悪だな」

「え?」

「記者は、表面しか見てないから」

こんな状況でそんなことを言う余裕があるのかと、呆れそうになる。けれどその言い方が、妙に見覚えのある棘を含んでいて、胸の奥を引っかいた。

オペレーターが何か言っている。私は急いで状況を伝え、通話を切った。

「もうすぐ来ます。煙も少ないし、動かさないほうがいいって」

「……賢明だ」

短く答えた彼が、不意に苦しそうに息を飲んだ。痛みが波のように来たのだろう。私の心臓までひやりとする。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃない」

「ですよね!」

思わず声が裏返った。

彼はその一瞬だけ、ほんの少し口元を動かした。笑ったのかもしれない。こんなときに。

雨音が屋根を叩く。ハザードの橙色が、濡れた車内を明滅させる。私は彼の顔から目を離せなかった。血の気が、どんどんなくなっていくのが不気味だった。

意識を保たせなきゃ。

そう思った瞬間、記者時代に事故現場で救命士へ取材したときの言葉がよみがえった。

――待つ時間がいちばん怖い。だから、話しかけ続けるんです。

「えっと、名前、聞いてもいいですか」

私がそう言うと、彼は一拍置いた。
なぜか、すぐには答えない。

「……君は」

「はい?」

「なんで、ここにいる」

予想外の問いだった。

私は唇を噛んで、少しだけ笑った。

「帰り道だったんです。事故を見たから」

「普通は……通り過ぎる」

「そうかもですね」

「なのに来た」

「……たぶん、性分です」

現場を見たら、足が向く。
放っておけない。
その説明を、私は飲み込んだ。

彼はじっと私を見ていた。雨の筋がフロントガラスを流れ、その向こうの街灯がぼやける。そのせいで、車内だけが妙に閉じた世界みたいだった。

「変わってるな」

「よく言われます」

「記者、か」

「元、です」

「そうか」

そこで彼の声がふっと途切れた。私は慌てて身を乗り出す。

「ちょっと、寝ないでください」

「寝るつもりはない」

「顔色が悪いです」

「本人が一番わかってる」

「そういうこと言うと、嫌われますよ?」

口をついて出た言葉に、自分で驚く。
初対面の、しかも瀕死かもしれない相手に何を言っているんだ、私は。

けれど彼は怒らなかった。むしろ、ぼんやりした視線のまま私の顔を見て、何かを確かめるように目を細めた。

次の瞬間。

冷たい指が、私の手首をつかんだ。

びくりと肩が跳ねる。

驚くほど冷たい手だった。雨に打たれたせいだけじゃない。体温が逃げていくような、ぞっとする冷たさ。それなのに、握る力だけははっきりしている。

「……離れるな」

低く、掠れた声だった。

命令みたいな言い方なのに、どこか必死で、子どもみたいにまっすぐだった。

私は目を見開いたまま、息を忘れる。

「え……」

「……ここにいろ」

さっきまで冷静に自分の状態を分析していた人と同じとは思えない声音だった。たったそれだけの言葉に、雨より冷たいはずのその手が、なぜか熱を持っているみたいに感じる。

救急車が来るまでの数分も、もしかしたら一分も経っていなかったのかもしれない。
でも、彼に手を握られていた時間だけは妙に長く感じた。

「……わかりました」

私がそう答えると、彼の指先からほんの少し力が抜けた。

「離れません」

「……約束だ」

「はい」

自分でも、なぜそんなふうに返したのかわからない。