【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

診察室に入るなり、怜央は私を診察用のベッドへ座らせた。

「座って。靴、脱いで」

「自分でできます」

「知ってる。でも遅い」

怜央はしゃがみ込んで私のパンプスを片方ずつ脱がせた。
手つきは無駄がないのに、乱暴さは一つもない。

「怜央さん、患者さんが待ってるんじゃ——」

「今は君が患者」

額に手が触れる。
ひやりとした掌が熱を測るみたいにとどまって、次に首筋へ移る。
私は反射で肩をすくめた。

「熱、少しあるな」

そう言って体温計を差し出される。
脇に挟んでいる間に、怜央は看護師さんへ短く指示を出した。
血圧計、水、経口補水液。必要なものが数分で揃う。

ピピッと電子音が鳴る。

「三十七度八分。脱水気味。寝不足は?」

「……ちょっとだけ」

「何時間寝てる?」

「四時間くらい」

「それを『ちょっと』で済ませるの、今後禁止」

口調は冷たい。
呆れているのもわかる。
でも、血圧計のカフを巻く手つきはやっぱりやさしかった。
きつすぎず、でもずれないようにぴたりと合わせてくる。
喉の状態を確認するときも、眩しくないようにペンライトの角度を変えた。

「食事」

「食べてます」

「何を」

「……朝、ヨーグルトを少し」

怜央の眉間の皺が深くなる。

「それは食べたうちに入らない」

「でも、あんまり食欲が」

「なんで悪化するまで黙ってた?」

責めるような声音だったのに、次に出てきたのはため息だった。

「ほんとに、君は」

そこで言葉を切る。
怒鳴るわけでも、説教を続けるわけでもなく、怜央はペットボトルの経口補水液を開けて私に渡した。

「少しずつ飲んで。気持ち悪くなったら止める。今日の予定は全部キャンセル」

「え、でも——」

「反論する元気があるなら、その分を回復に使って」

冷たい。
冷たいのに、毛布を広げて私の膝にかける手だけがやたら丁寧だ。

点滴までは不要と判断したらしく、怜央は私の爪の色を見て、もう一度脈を確認したあと、ようやく少しだけ表情を緩めた。

「今すぐどうこうなる状態じゃない。でも、隠して無理したら次は点滴で拘束する」

「拘束って言い方、物騒なんですけど」

「医者の警告は具体的なほうが効く」

思わず笑ってしまい、でもそのせいで目の奥が熱くなった。

たぶん、私はずっと勘違いしていた。

冷たい言葉のあとに優しい手があるから、ときどき不意打ちみたいにときめくのだと思っていた。
いわゆる、ギャップというやつだと。

違う。

この人は、たまたま優しい瞬間があるんじゃない。
たぶん最初からずっと、不器用にしか優しくできない人なんだ。

言い方はきつい。
表情も固い。
でも、痛みや不調を前にすると見過ごせない。
迷惑そうな顔をしながら、丁寧に手を伸ばしてくる。

取材した日の私は、この人の半分も見えていなかった。

「……なんで黙る」

怜央に覗き込まれて、私は慌てて顔を上げた。

「なんでもないです」

「顔が赤い」

「熱です」

「それだけならいいけど」

低い声が落ちる。
それだけでまた変に意識してしまう自分が悔しい。

怜央は診察室の隅のデスクへ移り、タブレットを開いた。
完全に仕事へ戻るつもりらしいのに、数分おきに必ずこちらを見る。

「寝てていい」

「でも、怜央さんこそ無理しないでください」

「君に言われたくない」

即答だった。
私は毛布を鼻先まで引き上げる。

「……すみません」

「謝らなくていい。次から隠さないで」

その一言が、妙にまっすぐ胸に入った。