【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

問題は、私のほうだった。

怜央が病院へ戻り始めてから、私の生活は思った以上に慌ただしくなった。
久遠家の「奥様」として最低限の振る舞いを叩き込まれ、病院では付き添いとして待機し、家に戻れば使用人さんたちとの調整や、御堂から渡される膨大な予定表の確認。

それに加えて、私は夜中にこっそり自分のノートパソコンを開いていた。
契約が終わったあと、何も残らないのが怖かったからだ。
昔の記事を整理して、書けそうな企画をまとめて、もう一度どこかに出せないか考える。
借金の不安はなくなっても、「このまま誰かの用意した場所に甘えていたくない」という焦りだけは消えなかった。

その結果、寝不足になった。

最初はただ少しだるいだけだった。
次に、食欲がなくなった。
それでも、この程度で弱音を吐いたら、回復途中の怜央の足を引っ張る気がして、私は黙っていた。

大丈夫。
これくらい。
そう思っていたのに。

数日後には、廊下の床がふわふわして見えた。

消毒液の匂いが、妙にきつい。
耳の奥がじんじんする。
私は人のいない角まで歩いて、壁にそっと手をついた。

深呼吸すれば治る。
そう思って、目を閉じた瞬間だった。

「梨音」

低い声に名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。

顔を上げると、怜央が少し離れたところに立っていた。
さっきまで診察室にいたはずなのに、どうしてここに。
私は反射的に背筋を伸ばす。

「どうしたんですか。まだお仕事——」

「それはこっちの台詞」

冷たい声だった。
温度がない、いつもの医者の声。

「顔色が悪い。いつから?」

「悪くないです」

「嘘」

即答だった。
逃がす気がまるでない目で、怜央が近づいてくる。

「歩幅がさっきから狭い。返事が一拍遅い。朝から水分もほとんど取ってないだろ」

「……見てたんですか」

「見えてた」

その言い方が、妙に悔しい。
悔しいけれど、言い返す余裕がもうなかった。

怜央は私の手首を取る。
脈をみる指先は冷静で、触れ方だけがひどく丁寧だった。

「速い」

「緊張してるだけです」

そう言った瞬間、ふわっと視界が傾いた。
あ、と思ったときには、怜央の腕が私の肩を支えていた。

「大丈夫ですっ」

「大丈夫な人間は、今みたいな倒れ方をしない」

ぴしゃりと切られて、私は黙るしかなくなる。
そのまま怜央は近くの診察室へ私を連れていった。