【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

「……寝るまでだけ、です」

自分でも驚くくらい小さな声だった。

「ベッドに入るのはなし。手をつなぐだけ。それなら」

怜央は、ひどく真面目な顔で頷いた。

「十分だ」

十分、なのか。
その一言だけでまた心臓が妙な音を立てたけれど、ここで引き返せるほど器用じゃない。

私は怜央の部屋まで一緒に行き、ベッド脇の椅子を自分で引いた。
怜央は素直にベッドへ入る。部屋着の胸元からのぞく鎖骨が妙に白くて、見てはいけないものを見た気がして、私はあわてて視線を逸らした。

「電気、消しますね」

小さな間接照明だけが残ると、部屋が急に静かになった。
私は椅子に座り、そっと右手を差し出す。
怜央は迷いなくその手を取った。

長い指。
手術をする人の手だ、と思った。
骨ばっていて、少し冷たいのに、握る力は驚くほどやさしい。

「……ちゃんといる?」

目を閉じたまま聞かれて、胸の奥がきゅっとなる。

「います」

「途中で帰らない?」

「帰りません。寝るまでですけど」

「じゃあ、急いで寝る」

こんなときまで言い方が少しおかしい。
思わず笑うと、怜央は薄く目を開けて私を見た。

「笑った」

「笑いました」

「よかった」

それだけ言って、怜央はまた目を閉じた。

しばらくして、握る指先の力が少しずつ緩んでいく。
それでも完全には離れない。
眠りに落ちるぎりぎりまで、確かめるみたいに私の手を包んでいた。

「梨音」

低く掠れた声で名前を呼ばれて、息が止まる。

「……はい」

「いてくれて、ありがとう」

返事をする前に、寝息が混じった。
たぶんもう半分以上、夢のほうにいる。

私は動けなくなったまま、眠った怜央の横顔を見つめた。
病院内の彼は、相変わらず冷静で、偉そうで、言葉も足りなくて、いかにも私が最初に「性格は冷たい」と判定した久遠怜央そのものなのに。
こうして眠る直前だけ見せる弱さは、ひどく無防備だった。

怖かったんだ。
記憶がないことも、眠ることも、ひとりでいることも。

それを口にできるだけ、この人は強いのかもしれない。

結局、私は怜央の手が完全にほどけるまで、椅子から立てなかった。