【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

食後、私は自分に用意された部屋へ逃げ込むように戻った。
広すぎるベッド、整いすぎた調度品、窓の向こうの夜の庭。
どこを見ても、自分の人生と地続きじゃない。

鏡の前で指輪を外しかけて、やめる。
外したところで、この状況が夢だと証明されるわけじゃない。

そのとき、控えめなノックがした。

心臓が変な跳ね方をする。
こんな時間に来る相手なんて、一人しかいない。

「……はい」

ドアを開けると、予想どおり怜央が立っていた。
部屋着姿なのに、妙に絵になるのが腹立たしい。
けれど顔色は昼より少し悪い。

「どうしたんですか」

「起こしたか」

「まだ寝てません」

怜央は少しだけ視線を伏せた。
院内であれだけ冷静に医師へ指示を飛ばしていた人とは思えないくらい、ためらうような間が落ちる。

「……目を閉じると、これ以上記憶がなくなってしまいそうで怖いんだ」

低い声が、夜風みたいに静かに届く。

「大丈夫だとわかっていても、急に息が詰まる。情けない話だが、ひとりだと眠れる気がしない」

胸がきゅっと縮んだ。
この人にも、ちゃんと怖いものがある。
当然なのに、なぜか今さら知ったみたいな気がした。

「御堂さんか、お母様を——」

「違う」

かぶせるように言われる。
そして怜央は、私だけを見る目で続けた。

「君がいい」

その願いは、どんな告白より心臓に悪かった。

私は言葉を探した。
契約だから。演技だから。そう自分に言い聞かせる言葉を。
でも、どれも心を落ち着かせてはくれない。

怜央は、少しだけ苦く笑った。

「君は俺の妻なんだよね?」

彼の指先が、そっと私の薬指の指輪に触れる。
それは初めてお見舞いに行った日と同じ、確かめるみたいな仕草だった。

「なら、今夜はそばにいて?」