【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

ある午後、リハビリを兼ねて病棟の廊下を歩いていたときだった。
怜央はまだ長くは歩けない。ゆっくり、痛みを隠すみたいに平然とした顔で進む。
その隣を、私は妙に緊張しながら歩いていた。契約上の妻として腕を貸しているだけなのに、肩にかかる体温が近すぎて落ち着かない。

そのとき、少し先の個室から鋭いアラーム音が弾けた。

「血圧が落ちています!」

「ドレーン排液なし、でも頸静脈が——」

若い医師の切羽詰まった声が廊下に飛ぶ。
次の瞬間、怜央の足が止まった。

さっきまで私に向けていたやわらかさが、音もなく消える。
目つきが変わった。
空気の温度が一気に下がる。

「何の術後だ」

低く、鋭い声。
呼ばれて振り向いた若い医師が、はっと息を呑んだ。

「く、久遠先生……急に血圧が——」

「ドレーンは?」

「さっきから止まっていて……」

「エコーを持ってこい。ドレーンを確認、開通しなければ再開胸の準備。主治医を呼べ、急げ」

一言ごとに、現場の迷いが切り落とされていく。
周囲の医師も看護師も、誰一人逆らわない。考えるより先に体が動いていた。

怜央は病室の入口まで歩み寄り、ベッド上の患者さんを一目見ただけで続けた。

「酸素流量を上げろ。輸液は絞るな。血圧だけ見て押すと悪化する。エコー、そこじゃない、下から入れろ」

若い医師の手元が震えていた。
でも怜央は怒鳴らない。ただ冷静に、必要なことだけを言う。

「落ち着け。見えている所見を順に拾え。首、心音、排液量。患者は全部答えを出してる」

その声に、私の背筋がぞくりとした。

知っている。
この人はこういう人だ。
冷たいんじゃない。
迷いで誰かを死なせないために、余計な感情を全部削ぎ落としているだけだ。

エコー画像が映し出され、若い医師が息を呑む。

「……心嚢液、あります!」

「なら迷うな。主治医が来るまでに開胸セットを揃えろ。間に合わせる」

数分後、駆けつけた主治医が処置を引き継ぎ、患者さんの血圧はゆっくり持ち直した。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。

若い医師が深く頭を下げる。

「ありがとうございました、久遠先生。先生がいなかったら——」

「次はもっと早く気づけ」

ぴしゃり、と切るような言い方だった。
ああやっぱり冷たい、と思った瞬間、怜央は一拍置いて続けた。

「ただ、初動は遅くなかった。止まらず動いたのは正解だ」

若い医師の顔が、見るからに救われたようにほどける。
不器用だ。
優しくないようでいて、ちゃんと必要な分だけは気持ちを渡していく。
本当に、不器用だ。