【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

リハビリ室を出て、サロンのソファに座ると、怜央は私の指輪を見た。

「それ、似合ってる」

「……ありがとう」

ありがとう、と言っていいのか分からない。
これはあなたの妻らしく見せるための小道具なのに。

「指輪、重くない?」

「重くはないよ。……ただ」

「ただ?」

「……気になる」

「俺も、気になる」

怜央がそう言って、私の薬指に触れかけて、思い出したように手を引っ込めた。

「触られるの、嫌だった?」

「ち、違う。嫌じゃない。そうじゃなくて……」

嫌じゃないと言ってしまったことに、今さら赤面する。
私、何を言ってるの。

怜央が、少しだけ顔を近づけてくる。
距離が、急に熱を帯びる。

「でも、顔が怖い」

「え?」

「考えすぎてる顔。……何を考えてる?」

心臓が跳ねた。
言えるわけがない。

私はあなたの妻じゃありません。
私はお金で雇われた偽物です。

そんな真実を、どうやって口にするの。

「……ただ、あなたが痛いのが嫌で」

嘘じゃない。
全部じゃないけど、嘘じゃない。

怜央は一瞬だけ黙って、それから私の肩に額を預けた。
重みが、驚くほど自然だった。

「なら、俺はもっと回復する。君が嫌がること、したくない」

……なんで、そんなに優しいの。
嘘をついているのは、私なのに。

「ねえ、怜央さん」

「ん?」

「もし……」

もし、私があなたの妻じゃなかったら、どうする?

口をついて出そうになって、私は慌てて飲み込む。
危ない。
今のは、危なかった。

怜央が顔を上げ、じっと私を見た。

「今、何か言いかけた」

「言ってない。……気のせい」

「気のせいでもいい。言ってほしい」

この人は、どうしてこう、逃げ道を潰してくるの。
優しい顔で、まっすぐに。

「……いつか、言える時が来たら」

私がそう言うと、怜央は少しだけ目を細めた。

「約束?」

「約束……できるか、わからないけど」

「いい。今の返事で十分」

十分、って。
私は何も約束できないのに。

御堂が、静かに近づいてくる。
表情を変えずに、手元のタブレットを一度だけ操作した。

「本日午後の面会は、主治医からの経過確認と、リハビリメニューの微調整です。逃げられません」

「秘書が冷たい。……鬼だ」

「褒め言葉として受領します」

その会話に、私の口元がほんの少しだけ緩んだ。

怜央が、私の手を握った。

「今、笑った」

「うん。笑った」

「よかった」

「何が?」

「君が笑うと、俺も痛みが消える」

優しい言い方で、私の逃げ道を塞ぐ。
そして私は、その逃げ道を塞がれることを、少しだけ望んでしまう。

その言葉が、私の中の契約を、少しずつ溶かしていく。

お金のため。
借金返済のため。
そうやって自分に言い聞かせないと、ここにいる理由が崩れてしまうのに。

でも今は、別の理由が芽を出し始めていた。

この人が、痛みを忘れると言うなら。
この人が、私の存在を必要だと言うなら。

嘘の妻でも——。
せめて、支えになりたい。

ソファの上で、怜央は短い休息のうちに目を閉じた。
瞼が落ちる直前、掠れた声で、私の名を呼ぶ。

「……梨音」

返事をしたら、嘘が確定してしまう気がして。
それでも私は、握られた手をほどかずに、そっと答えた。

「ここにいるよ」

本物の妻ではない。
だけど、今だけは。

この人の痛みのそばに、私がいてもいいような気がした。

……そして、そう思い始めている自分が、いちばん怖かった。