【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

最後にまともに書いた記事は、医療特集だった。

「若き天才心臓外科医、命をつなぐ手」

ありがちな見出しだと、自分でも思う。けれど現場は、見出しよりずっと凄まじかった。

大学病院の見学窓越し、私は十二時間近い手術の終盤を見ていた。モニターの規則的な電子音。張りつめた空気。マスク越しに指示を飛ばす声だけが静かで、異様なほど落ち着いていた。

久遠怜央。

当時から、その名は医療誌どころか一般紙にも載るほど有名だった。久遠グループの御曹司でありながら、経営にはほとんど顔を出さず、オペに立ち続ける男。若くして難しい症例をいくつも成功させた、冷徹な名医。

実際に見た彼は、噂よりずっと凄かった。

血で汚れた現場にいながら、一つも動きがぶれない。眼差しは鋭いのに、声は不思議なくらい平坦で、その平坦さがかえって周りの混乱を鎮めていた。若い医師が器具を落としかけた瞬間も、彼は怒鳴らなかった。ただ「深呼吸して、次」と一言。たったそれだけで、その場の流れを立て直した。

心停止しかけた患者の波形が戻ったとき、見学窓のこちらにいた私まで膝から力が抜けたのに、彼だけは少しも表情を変えなかった。

手術後の短い取材で、私はつい聞いたのだ。

「奇跡、ですね」

彼はまだ術衣のまま、濡れた髪を無造作にかき上げていた。徹夜明けで顔色も悪かったのに、目だけは冷たく冴えていた。

「奇跡ではありません」

「……え?」

「準備と判断の積み重ねです。奇跡と書かれると、現場の再現性が消える」

その通りだった。ぐうの音も出なかった。