【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

逃げるみたいに病室を出ると、廊下の壁にもたれたまま深呼吸した。
顔が熱い。絶対熱い。体温計がなくてもわかる。

「顔色が悪いですね」

横から平坦な声が落ちてきた。
振り向くと、御堂がいつの間にか立っていた。

「悪いのは顔色じゃなくて心臓です」

「重症ですか」

「あなたのご主人様に原因があります」

「でしょうね」

即答だった。
この人、遠慮というものが本当にない。

御堂はタブレットを操作しながら、淡々と言った。

「今後、怜央様の前では距離感にもう少し自然さが必要です」

「自然さ」

「はい。名前を呼ぶ。目を合わせる。迷ったら手に触れる。夫婦らしい距離感を演出してください」

「迷ったら手に触れるって、ふわっとした指示ですね」

「恋愛小説の中では有効でした」

私は瞬きをした。

「……はい?」

「昨夜、恋愛小説を徹夜で読み漁り、マスターしました」

真顔だった。
ただし、耳の先だけがうっすら赤い。

「何をですか」

「夫婦の自然な距離感を」

恐ろしいことに、冗談を言っている顔じゃなかった。

「恋愛未経験の方からのアドバイスは説得力がありません」

「知識と経験は別物です」

「別物すぎます」

御堂は付箋だらけの文庫本を差し出してきた。
本当に読んだらしい。しかもたぶん複数冊。
有能な秘書の努力の方向が、深刻に間違っている。

「必要な箇所に印を付けてあります」

「いりません!」

「そうですか。では要点だけ口頭で。夫婦は、相手の体調と食事に過剰なほど口を出します。あと、名前を呼ぶ頻度が高い」

「最後だけやけに具体的ですね……」

「データが多かったので」

この人、恋愛経験皆無なのに分析だけは一流だ。

「ともかく」御堂は眼鏡を押し上げた。

「怜央様は、あなたが思っている以上にあなたを拠り所にしています。離れると不安定になる可能性が高い。そこだけは忘れないでください」

冗談みたいな会話のあとだったからこそ、その一言だけが妙に重く胸に落ちた。