【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

通されたのは書斎だった。
広い机の上に、契約書がきっちり揃えられている。横には朱肉、万年筆、封筒。圧がすごい。

私は椅子に座るなり、書類に目を落とした。
人が差し出す文面の曖昧さを見逃すほど、私は原稿に甘くない。

契約期間、守秘義務、終了条件、報酬、住居提供、身辺警護。
一条ずつ追っていくと、途中で思わず目が止まった。

「……第三条二項」

「はい」

御堂が答える。

「『同衾その他、夫婦間に通常想定される親密な接触について、甲は乙にこれを強制しない』……って」

一瞬、部屋が妙に静かになった。
夫人が気まずそうに咳払いをする。

「必要条項です。夫婦間であっても、性行為や親密な接触は、相手方の同意があって初めて成立するものであるという原則を確認するものです」

御堂は真顔だった。
でも耳がほんの少しだけ赤い。

「そこだけ急に六法全書みたいな温度になるの、やめてください」

「曖昧だと問題になるので」

「御堂!」

夫人がやや強めにたしなめる。

「……失礼しました」

私は最後まで読み切ってから顔を上げた。

「確認したいことがあります。三か月より前に記憶が戻ったら、その時点で終了。三か月経って戻らなくても延長なし。これでいいですか?」

「いい」

会長が即答した。

「三か月以上、君を縛るつもりはない」

一千万円。
借金はなくなる。仕事を探す時間も買える。父が残した後始末が、ようやく終われる。

でもそれ以上に、昨日からずっと胸に残っているのは、あの目だ。
冷たいと思っていた人が、空白の中で私だけを確かなものとして見ていた、その事実。

私はハンコケースを開けた。
ぽす、と小さな音がした。
たったそれだけの音なのに、紙の上に自分の名前が落ちた瞬間、後戻りできなくなった気がした。

「……三か月だけです」

自分に言い聞かせるみたいに私は言った。

「怜央さんの記憶が戻るまで。三か月だけ、妻をやります」

夫人の目に、うっすら涙が滲んだ。
会長が静かに頭を下げる。
御堂だけが、いつもの平坦な声で告げた。

「契約、成立です」

その響きがやけに現実的で、私は乾いた唇を舐めた。