【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

その夜、病院近くのホテルを手配されても、私はほとんど眠れなかった。

朝七時ちょうど、黒い車が迎えに来た。
時間の正確さまで財閥仕様らしい。

一度アパートへ戻り、最低限の荷物とハンコを鞄に詰める。引き出しの奥から取り出した小さなハンコの次の使い道が、まさか偽りの妻契約だなんて、ハンコ本人も想定外だろう。

六畳一間の部屋は、昨夜までの私の現実そのものだった。畳みきれていない洗濯物、机の上の不採用通知、冷蔵庫の中の半分だけ残った豆腐。
ここにあるもの全部足しても、久遠家の応接間のソファ一脚にも勝てない気がする。

車に戻ると、御堂が助手席から一度だけこちらを見た。

「荷物、少ないですね」

「人間、追い詰められると物も減るんです」

「参考になります」

「何の参考ですか」

返事はなかった。
たぶんこの人、会話のボールを拾う気分と拾わない気分の差が激しい。