【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

説明が終ったあと、久遠家の人たちは私を病院内の応接室へ案内した。
高級なソファ、無駄のない照明、艶やかな机。
病院の一角なのに、そこだけ別の世界みたいだった。

「桐生さん」

夫人が、祈るみたいな声音で私の名を呼ぶ。

「驚かせてしまいましたね」

「いえ……その、驚いたどころではなくて」

たぶん私は、かなりひどい顔をしていたと思う。
だって数時間前まで不採用通知と返済日のお知らせに潰されていた無職が、いきなり御曹司から妻と呼ばれているのだ。

――人生の職種変更が雑すぎる!段階というものを踏んでほしい……。

会長がまっすぐ私を見た。

「怜央は、君を妻だと思っている」

「私は違います」

やっとそれだけ言えた。
言った瞬間、胸の奥がずきりとした。あの目を思い出したからだ。

「もちろん承知している」

会長は淡々と言った。

「だが、今の怜央には安定が必要だ。否定して混乱させれば、術後管理にも悪影響が出る可能性がある」

「お願いできませんか」

夫人が両手を握りしめる。

「あの子のそばに……しばらくの間だけ、妻としていてあげてほしいの」

「無理です」

反射みたいに言葉が出た。

「私、ただの他人です。嘘をつくなんて」

「善意だけに縋るつもりはない」

会長の声は静かだったけれど、重かった。

「君の人生を拘束する以上、対価は払う」

そのタイミングで、ドアが控えめにノックされた。
入ってきたのは、先ほどの眼鏡の秘書――御堂だった。相変わらず、無駄のないスーツ姿が病院の照明によく似合わない。

「調査が終わりました」

早すぎる。
私が目をむくと、御堂は紙の薄いファイルを開いた。

「桐生梨音さん。二十七歳。元週刊誌記者。現在は転職活動中。奨学金の返済あり。加えて、お父上の事業負債を継続返済中。家賃滞納予備軍、貯金残高は――」

「待ってください!本人の前で、恥ずかしい経歴だけを読み上げないでください!」

「事実確認です」

御堂は平然としている。

「なお、事故から現在まで、あなたはどの媒体にも連絡を取っていない。SNS投稿もなし。元記者としては驚くほど良心的です」

「褒めてます?」

「半分だけ」

半分だけらしい。
この人、口が悪いのに顔が真面目だから、毒舌の切れ味が鋭すぎる。

御堂は書類をテーブルに置いた。

「提案があります。三か月だけ、怜央様の妻になっていただく契約です」