【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

その夜、仕事を終えて帰ると、ダイニングテーブルに例の雑誌がきれいに置かれていた。
怜央が、すでに読んだらしい。付箋までついている。

「……査読ですか」

「感想」

椅子に座ったままの怜央が、私を見上げる。

「いい記事だった」

それだけで十分なのに、怜央は続けた。

「現場の怖さも、医者の見栄も、ちゃんと削って書いてある。誰かを神にしないのに、敬意は失ってない。君にしか書けない」

胸の奥がじんと熱くなる。
久しぶりだった。
書いたもので、こんなふうにまっすぐ肯定されるのは。

「……ありがとうございます」

ちょうどそのとき、インターホンが鳴った。
モニターに映ったのは御堂だった。

ドアを開けると、彼はいつもどおり隙のないスーツ姿でダイニングへ入ってくると、テーブルの雑誌に視線を落とした。

「拝読しました。公私混同の気配ゼロで、優良でした」

「編集長みたいなこと言わないでください」

「おい、御堂。こんな時間に、わざわざ記事の感想を言いに来たのか?」

すると、御堂は無言のままスマホを少しこちらへ向けた。
画面には短いメッセージが表示されている。

『先日は取材調整ありがとうございました。今度、仕事抜きで食事でもいかがですか? 真鍋』

真鍋さん。
うちの編集長補佐で、取材の日に御堂と連絡を取り合っていた、あの切れ者の美人だ。

私は数秒、画面と御堂の顔を見比べた。
怜央も、珍しく無言でそれを見ている。

やがて御堂が、深刻な声で言った。

「……これは追加取材の打診でしょうか」

「違うと思う」

私と怜央の声が、きれいに重なった。

御堂の眉間に、見たことのない種類のしわが寄る。

「では、個人的なお誘いというやつですか」

「たぶん」

「……想定外です」

その顔が、緊急オペの知らせを受けた研修医より深刻だったので、私はとうとう吹き出してしまった。

「参考文献、増やす時ですね」

「恋愛小説は理論しか教えてくれません」

「十分すぎるほど勉強してたじゃないですか」

「実地は管轄外です」

きっぱり言い切るあたりが、もう駄目だ。
怜央が呆れたように息を吐く。

御堂はスマホを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
それからようやく、ものすごく真面目な顔で私を見た。

「……返信例を三案ほど、いただけますか」

それを聞いて、私と怜央は思わず顔を見合わせてしまった。

記憶は戻った。
記録も、こうして紙になった。

その先にあったのは、豪華なドラマじゃない。

朝の味噌汁と、締切と、ズレまくった秘書との会話と、手術の予定表みたいな毎日だ。

でも私は、その毎日がどうしようもなく、愛おしくてたまらなかった。