【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

原稿は、その夜、ダイニングテーブルで書いた。
パソコンの画面の向こうにいるのは、最初に見たときの冷たい名医と、今の私が知っている不器用な人、その両方だ。

書きたいのは、身内自慢じゃない。
夫として甘いところを暴露したいわけでもない。
あの静かな声が、どうして現場を支えられるのか。
奇跡と呼ばれがちな結果を、どうやって工程へ変えていくのか。
そこを、ちゃんと文章にしたかった。

行き詰まって唸っていると、書斎から戻ってきた怜央が私の隣へマグカップを置いた。
温かいほうじ茶だった。

「冒頭で止まってる顔」

「わかります?」

「締切前の君は、眉間にしわが寄る」

失礼だ。
でも当たっている。

「最初の一行が決まらなくて」

私がそう言うと、怜央は少しだけ考えてから言った。

「初めて会ったときの印象から書けばいい」

「医者としては尊敬できるが、性格は冷たい、ですか?」

「ずいぶん辛辣だな」

「事実だったので」

「君は最初の記事でも、俺を持ち上げなかった。その目線が好きだった」

書斎に残していた、あの古い医療特集号を思い出す。
誠実な記者の性格が反映された、正確な文章。

「じゃあ、今回もそうします」

「そうして」

怜央は私の髪を一房だけ指に絡めて、すぐに離した。

「君の言葉で書いて」

その一言で、冒頭が決まった。