【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

やがて怜央はポケットから小さな箱を取り出した。
よく見ると、右手には小さな濃紺のケースが握られている。
私がさっき返した、あの指輪の箱とは色が違う。

「新しい指輪を用意した」

握っていた濃紺のケースを少し持ち上げた。

「え?」

次の瞬間、怜央は玄関の真ん中で、膝をついた。

「……っ、怜央さん!?な、何して――」

「静かに。聞いてくれ」

怜央は箱を開けた。
指輪はさっき返したものとは別のデザインだった。
光が、朝の玄関の空気に反射して、きらりと跳ねる。

「契約は終わった」

怜央の声が、落ち着いているのに、どこか震えている。

「だから――桐生梨音。今度は偽物じゃなく、本当に俺の妻になってほしい」

低く、静かで、でも少しも迷わない声だった。

「俺と結婚してくれ」

視界が滲む。
こんな大事な場面で、ちゃんと顔を見たいのに。

それでも私は笑った。
泣きながら、たぶんひどい顔で。

「……ずるいです」

「知ってる」

「自由にする、とか言って、一人で勝手に決めないでください。もう、一人で抱え込まないでください」

「約束する」

怜央は、ほんの少しだけ息をつめるみたいに待った。

「それで、返事は」

そんなの、決まっている。

「はい」

言った瞬間、涙が一粒だけ落ちた。

怜央の目元が、ゆっくりほどける。
記憶を失くしていた頃のやわらかさと、全部を思い出した今の強さが、同時にそこにあった。

「……抱きしめてもいい?」

思わず泣き笑いになる。

「聞くんですね」

「今度は、勝手にしない」

その答えがあまりにも怜央らしくて、私は頷いた。

次の瞬間、強い腕が私を包み込む。
苦しいくらい近いのに、少しも怖くない。
ずっと欲しかった場所が、ここにあるんだと、体が先にわかった。

「もう二度と、あんなふうに突き放さない」

耳元で囁かれて、また胸が熱くなる。

「悪かった」

低い声が落ちてきて、私は反射で目を閉じた。

触れたのは、やわらかいキスだった。
長くはない。
でも、契約でも慰めでもないことが、どうしようもなくわかるキスだった。