【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

怜央が一歩、私に近づく。

さっきまで遠かった距離が、いっぺんに近くなる。
逃げようと思えば逃げられる距離なのに、足は少しも動かなかった。

「取材の日のこと、思い出した」

低い声が、まっすぐ落ちてくる。

「手術のあと、君は神の手なんて言って、俺に切り返されて、ものすごく不機嫌な顔をしてた」

「そんな顔してません」

「してた」

即答だった。

「でも、出来上がった記事を読んで、驚いた。患者家族への説明と、現場の責任と、再現性を書いていた。あんなふうに俺の仕事を見た人は、後にも先にも君だけだ」

書斎で見つけた、あの記事の余白メモがよみがえる。
誠実な記者の性格が反映された、正確な文章。

「書斎の雑誌、見たんだろ」

「……見ました」

「何度も読み返した」

怜央の声音が、少しだけやわらぐ。

「あの記事を読んだ時点で、もう気になってた。事故の夜、君が『元記者です』って言ったとき、記憶はなかったのに、どこかで安心したのはそのせいかもしれない」

胸が、どくんと鳴る。

「それから先は、もっと駄目だった。一緒に暮らして、怒られて、笑われて、一緒に歩いて、眠れない夜に手を握ってもらって……あの時間が、契約のままで終わるはずがない」

怜央の目が、真っ直ぐに私を射抜く。

「記憶を失くしていた俺が、君に恋をした。それは事実だ。でも、それだけじゃない。記憶のある俺も、取材の記事の時点から君に惹かれてた。記憶喪失の時間で、それがはっきり恋になっただけだ」

言葉が、胸の真ん中へ落ちてくる。
逃げる暇もないくらい、まっすぐに。

「怜央さん……」

「梨音」

今度は、ちゃんと名前だった。
距離を切るための呼び方じゃない。
私を呼ぶための声だった。

「君の仕事も、君の人生も、何も諦めさせたくない。書くこともやめるな。俺は、君の言葉が好きだ」

怜央が、私の左手をそっと取る。
薬指の跡に、長い指先がかすかに触れた。

「借金を返したからでも、救ってもらったからでも、契約があったからでもなく」

そこで一度、はっきりと言葉を区切る。

「自由な君に、俺を選んでほしい」

息が止まる。

怜央はしばらく何も言わなかった。

ただ、私の左手を見ている。
指輪を外した薬指に残った、薄い跡を。