【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

「……少しだけでいい。話をさせてくれ」

怜央の声で、現実に引き戻される。

私はスーツケースの持ち手を握ったまま、うまく頷けなかった。
それでも足は動かなかったから、たぶん、それが答えだった。

「傷、開きますよ。走ったでしょう」

「開いてない」

「そういう問題じゃありません」

こんなときなのに、反射みたいに返してしまう。
怜央の口元がほんの少しだけ動いた。でも、すぐに真剣な顔へ戻る。

「黙ったまま終わらせるのは卑怯だと思った」

玄関の外は、眩しいくらい晴れている。
なのに、私の視界だけが少しずつ滲んでいく。

「卑怯だったのは、私もです。最後までちゃんと言えなくて」

「違う」

怜央は首を振った。

「悪いのは俺だ。記憶が戻ってから冷たくしたのも、距離を置いたのも、全部わざとだ」

そう言って、怜央は目を伏せた。

「そうしないと、離せなくなると思った」

「離す?」

「契約で、君を縛りたくなかった」

怜央はまっすぐ私を見る。

「借金も、恩も、家の事情も、全部片づいたあとで、君が自由に自分の人生を選べるようにしたかった。俺の都合で、君をここにつなぎとめたくなかった」

胸の奥が、じわりと熱くなる。

「君に嫌われるくらいでちょうどいいと思ってた」

「嫌いになれるわけないでしょう」

気づいたら、少し泣き笑いみたいな声になっていた。

怜央が息を呑む。

私はもう一度、唇を噛んだ。
ここで黙ったら、また終わる。

「私、最初は本気であなたのこと、冷たい人だと思ってたんです。医者としては尊敬できるけど、性格は冷たいって。恋人には絶対したくないタイプだって」

「そこまで言われると少し傷つく」

「でも!」

怜央が、ほんの少しだけ困ったように目を細める。
その顔が、やっぱりずるい。

「患者さんのご家族に向き合うあなたを見て、優しくないんじゃなくて、誠実なんだって思ったんです。言い方はきついのに、ちゃんと相手が自分で立てるように言葉を選んでて……ああ、この人は本物だって」

あの日の面談室が、今でも鮮明に浮かぶ。

「それから、私が倒れたら誰より先に飛んできて、寝不足も食事もすぐ見抜いて、夜が怖いって言って手を握って、私にだけ甘く笑うでしょう」

「……そんなに甘かったか」

「かなり」

きっぱり言い切ると、怜央は観念したみたいに息を吐いた。

「冷たい人だと思ってたのに、好きになってました」

言ってしまった瞬間、胸の奥の何かが、ようやくほどけた。

「あなたが好きです。だから、離れるしかないって思ったんです。このままここにいたら、私、きっとどこまでも甘えたくなるから」