【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

「梨音」

あんなふうに彼の張り上げた声を聞いたのは初めてだった。

扉の向こうに、怜央が立っていた。
息が上がっている。ネクタイは緩み、前髪も少し乱れていた。いつもの、少しも隙のない久遠怜央じゃない。
走ってきたのだと、ひと目でわかった。

「……どうして」

やっとそれだけ聞くと、怜央は数歩こちらへ来て、低く言った。

「出るところだったな」

「……」

「挨拶もなしに、消える気だった?」

責める声じゃない。
ただ、確かめる声だった。

「……怜央さんは、いないって聞いて……」

怜央は短く息を吐く。
そして、視線を逸らさずに続けた。

「今日は、契約満了の日だろ」

私は頷くしかなかった。
頷いたら、怜央の目がほんの少しだけ細くなる。

「だから、終わらせに来た」

その言い方が、怖かった。
終わらせる――その言葉は、別れの宣告みたいで。

「……っ」

「行くな」

その言葉だけで、胸の奥がひどく痛んだ。

「追いかけてこないでください」

掠れた声になった。

「あなた、もう私に会いたくないんだと思ってました」

怜央の喉がわずかに動く。

「会いたかった」

即答だった。

「会いたくないふりをしていただけだ」

「そんなの、いまさら……」

言い返しかけた瞬間、夫人が小さく息を呑む音がした。
振り返ると、会長夫妻も、使用人さんたちも、少し離れた場所で固まっている。御堂だけが、状況を一秒で判断した顔だった。

「会長、奥様、皆さん」

御堂が平然と言う。

「ここから先は、当事者以外が立ち会うと後で非常に気まずくなる可能性が高いです。なお、私は恋愛経験がありませんが、参考文献上、場を空けるのが定石でした」

夫人が泣き笑いみたいな顔になる。
会長はこめかみを押さえ、それでも「……任せる」とだけ言った。

使用人さんたちが、名残惜しそうに、それでもそっと下がっていく。
最後に御堂が私たちへ一礼した。

「五分と言いたいところですが、今回は十分まで許容します」

「何の許容ですか」

思わず聞き返すと、御堂は真顔のまま答えた。

「人生の軌道修正です」

そう言って、本当に去っていった。