天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《真一side》
「明日も同じ電車に乗ります」

 そう送ると、すぐに『はい、私もです』と返ってきた。画面を眺めながら、自然と微笑んでいる自分に気づいて、我に返る。慌てて笑顔の絵文字をひとつ送信し、スマートフォンを伏せて目を閉じた。

 ——あれから、数日。
 桐島さんとのやり取りは、いつの間にか日常に溶け込んでいた。これは友人関係と呼ぶのだろうか、それとも別の何かか。自分にはまだわからない。だが少なくとも、心のどこかが確実に満たされている。
 それだけは、はっきりしていた。


 ***


 いつものように改札で桐島さんと別れ会社に向かうと、エレベーターの前で小野と鉢合わせた。

「おう!」
「おはよう」

 挨拶を交わしたあと、タイミングよくエレベーターが到着したので流れに合わせて乗り込むと、小野がじっとこちらを見ていることに気づいた。

「……なんだ?」
「いや、最近ご機嫌だなって。もしかして……彼女でもできた?」

 その瞬間、なぜかエレベーター内の空気が妙に張りつめた気がした。

 周囲を見ると、同乗していた女性社員たちがなぜか険しい表情になっている。理由はわからないが、あからさまに空気が重たい。

「そんなものできてないが?」

 そう答えた瞬間、今度は空気がふっと和らいだような気がした。ふと視線を横にやると、女性社員たちが何やら微妙な顔で目をそらした。

(……何か気に障ることでも言っただろうか)

 そう思いながらも、真一にはその理由がわからなかった。

「なーんだ、やっぱ気のせいか。でもなー、この間スマホ見てニコニコしてたから、何かあったのかと思って」
「それはお前の気のせいだ」

 そう返したちょうどそのとき、エレベーターが自分たちのフロアに到着。 小野とともに降りると、彼は軽い調子で問いかけてくる。

「じゃあさー、彼女じゃなくても好きな人とかは? そういう人はできたんじゃねぇの? なあ、おい。聞いてるー?」

 その言葉には聞こえないふりをして、足早に自席へと向かった。


 ***


 午後の休憩時間。ロビーの片隅でカップコーヒーを手にスマホを開く。桐島さんとのやり取りを見返していると、背後から声が飛んできた。

「……桐島さんって誰だよ?」

 振り返れば、そこには案の定小野がいた。

「人のスマホを覗き見るなんてデリカシー皆無だな、お前は」
「いやいや、たまたま見えただけだって! で、誰よ、その人」
「お前には関係ない」
「……えっ! マジで大事な人なんだ」
「いや、関係ないと言ったんだが?」
「いつものお前なら、本当に無関係ならそう言うだろ。関係ないって濁す時点で怪しいんだよ」

 小野の視線がスマホに移ったのがわかった。次の瞬間、小野の手が伸びてきたので、反射的にそれを避けるように腕を上げる。

「やめろ」
「いいじゃん、ちょっとだけで——」
「あっ! 二人して何してるんスか!」

 突如として横から勢いよく佐々木が体当たりしてきた。

「……あっ」
「あっ」
「えっ?」

 三者三様の声が重なった瞬間、僕の手からスマホが滑り落ちた。

 ゆっくりと、まるで時間が引き延ばされたかのようにスマホが宙を舞い、そして——

 ぽちゃん。

 見事な弧を描いて、カップの中へ一直線に落ちていった。

「…………」
「……わっ、わっ、わーーーーっ!!!」
「え、マジ? 相原のスマホ……!」

 三人同時に動きを止めた。
 数秒の沈黙。誰も何も言えず、ただカップを見つめていた。

 ……そして現実が戻ってきた瞬間、佐々木はその場で土下座、小野は腹を抱えて笑い転げていた。
 そして僕は、カップの底に静かに沈んでいくスマホを見つめることしかできなかった。現実が胸に落ちてくるまでに、少し時間がかかった。


 ***


 何をどうしてもスマホが復活する見込みはなさそうだったため、仕方なく仕事帰りにキャリアショップへ立ち寄ることにした。

「いつ頃、修理が終わりますか?」
「数日はかかるかと……代替機をお渡ししますので、完了次第ご連絡いたしますね」
「……わかりました」

 時間がかかるのは当然だ。それは理解している。それでも胸の奥には、割り切れないものが沈んでいた。

 帰ろうとしたとき、店員が言った。

「なお、データは初期化の可能性がありますが、よろしいですか?」

 全く、よくない。よくないが……致し方ない。

「…………承知しました」

 そう答える声は、自分でも驚くほど絞り出したものになった。


 ***


 帰宅後、早速代替機を取り出し、設定を試みた。電源は入る。操作もそれなりにわかっているつもりだった。だが、なぜかLINEのログインがうまくいかない。メールも同期できず、電話帳のデータもどこかへ消えていた。説明書を読み直し、試せることは一通りやったつもりだったが──どうにもならなかった。

 夜が更けて、目の奥が重たくなっていく。結局その日は、諦めて布団に入った。代替機はベッドの隅にうつ伏せに転がったままだった。

 今日は桐島さんと連絡が取れなかった。仕方がないと分かっていても気持ちは晴れなかった。うつ伏せの代替機を見つめて、ため息がこぼれる。

 ——これ以上、言葉を送る術がないなら。

 明日、直接会って話そう。



 翌朝、いつもの電車で桐島さんと会った。本当は昨日のことをちゃんと話そうと思っていた。けれど彼女の表情はいつもと変わらず穏やかで、その笑顔に言葉を飲み込んでしまった。
 何事もなかったかのように話しながらも、やはり夜に連絡が取れないのは、どこか落ち着かない。
 代替機で連絡するのも……なんとなく気が乗らない。

 そのとき、ふと閃いた。

 ——仕事帰りに、会えばいいのでは?

 提案すると、彼女はすぐに「はい!」と笑ってくれた。


 ***


 その日の仕事では、社内がざわつくほどの異様な集中力を発揮した。


「すげぇ……もう、サイボーグみたいだな」

 小野がぽつりと呟き、佐々木は

「相原さん、かっけぇ!」と目を輝かせる。

 だが、そんな二人にかまっている余裕はない。

 なんとしても18時半に、駅に行かなければ。


 ***


 予定より少し遅れてしまったことに焦り、駅へと全速力で駆けた。改札の先、きょろきょろと周囲を気にしている桐島さんの姿を見つけた。
 目が合った瞬間、彼女はぱっと表情を明るくして、

「お、お疲れ様ですっ!」

 と満面の笑顔で言ってくれた。
 天使か、と思った。あまりに眩しい笑顔に思わず返す言葉を忘れた。 まるで自分だけ時間が止まったように。 足も、思考も、一瞬だけ止まってしまった。

 なんなんだろう、この気持ちは。


 彼女にうながされて、駅のホームへと向かう。 タイミングよく電車が到着し、並んで席に座ることができた。

「桐島さんって、電車でよくスマホを見てますよね。あれってゲーム、ですか?」

 ふと、以前からの疑問を口にしてみる。
 あれほど表情豊かに夢中になれるもの。それが何なのか、少し知りたくなった。
 すると彼女は照れながらもポツポツと答えてくれた。彼女の話を聞けば聞くほど、その世界に夢中になっているのが伝わってくる。

 話している彼女の表情がころころ変わる。そのひとつひとつが、目を離せないほど魅力的だった。

 思い切って「もしよければどんなゲームか、一度見せていただけますか?」と聞いてみると、彼女は戸惑いながらも「……今度、見せますね」と恥ずかしそうに笑ってくれた。

 笑った彼女の横顔を見て、胸の奥がまた少しあたたかくなった。

 そのとき自分のなかで、何かが音を立てて動き出した気がした。