天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《ひよりside》
 駅の改札を出て三歩歩いたところで、目の前に立ちふさがれた。目の前の男性──電車でいつも会う彼は、朝日に照らされながらまっすぐこっちを見ていた。

「……会いたかったんです」

 えっ、え、え???

 どういうことですか???

 しかもそのまま、無言でじっとこっちを見つめてくる。十秒、いや、たぶんもっと長く。私も黙ってしまって、なぜかその視線に応えてしまって──って、ダメダメダメ!! なんで見つめ合ってるの!?
 慌てて言葉を探すように咳払いをして、一歩距離を取った。

「あの、どうかしましたか?」
「仕事でトラブルがありました。その後始末で、ここ数日早朝出勤していたんです」

 彼の声はいつもと同じ、穏やかで落ち着いていて。嫌われてたんじゃなかったんだと、ほっとする自分がいた。

「そうだったんですね。……じゃあ、もう解決したんですか?」
「いえ、まだです」

 またもや頭の中が「???」でいっぱいになる。その混乱に気づいたのか、彼が静かに補足する。

「それでも……今日、あなたに会わなくてはいけないと思ったので」

 ……は?

「あなたに会わなくては」って、どういう……また意味がわからないセリフを放り込まれて、私の脳内は阿鼻叫喚。やばい。何か言わなきゃ。でもパニックすぎて言葉が出てこない。なんとか呼吸を整えて、やっとのことで口を開いた。

「えっと、でも……お仕事、まだ終わってないんですよね? 戻らなくていいんですか?」

 すると彼はほんの少し目を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。

「……あなたのお名前を教えていただけたなら」
「え?」
「僕の名前は相原(あいはら)真一です。あなたのお名前と、連絡先も教えてください。教えていただけたら社に戻ります」

 ……交渉してるつもりなのか、駄々をこねてるのか、もはやよくわからない。でもなんだろう、この人──ちょっと可愛いかもしれない。

 混乱しながらも、もうこれ以上ここで引き留めるのも悪いと思いスマホを取り出す。ふと、連絡先を入力する前に、まずは名前を名乗るべきかなと思い直して口を開いた。

「桐島ひより、です」

 一瞬、自分の声がやけに大きく響いたような気がした。

「ありがとうございます」

 彼は静かに頭を下げ、スマホを差し出してきた。画面には、連絡先の入力欄。言われるがままに自分の番号を入力して渡すと、彼はそれをまじまじと見つめ──なぜか、そっと画面を撫でた。まるで宝物でも扱うように。

(え、何この人……)

 心の中でツッコミながらも、顔はなぜか熱くなる。そして彼は画面を胸元に収めながら、再び深く頭を下げた。

「では、社に戻ることにします。ありがとうございました」

 真面目な声色でそう告げると、背筋を伸ばしたままちらりとこちらを見てから、ゆっくりと歩き去っていった。去っていく背中を見つめながら、私はようやく息を吐いた。

 ……え? 何が起きたの? 今のなに??? えっ、好きって言った? 言ってない? 会いたかったって何???

 処理速度を超えた情報が一気に流れ込んできて、思考が停止した。

 ……ダメだ。もう、なにも考えられない……。

 頭の中が真っ白なまま、改札を抜けて歩き出す。通勤ラッシュの雑踏の中を、何かに追われるでもなく、流されるように進んでいく。

 さっきまでの出来事を思い返そうとするたび、胸の奥がじんわり熱くなる。でも、それが本当に現実だったのか、自信が持てない。夢だったらどうしようなんて思いながら、つい何度もスマホを見てしまう。

 体はちゃんと会社に向かってるけど、気持ちはまだ、あの場所に置いてきたままだった。



 その夜。スマホにメッセージが届いた。

【今日はありがとうございました。仕事のトラブルは収束しました。明日はまた同じ電車に乗ります。会えるのを楽しみに待ってます】

 ……え、律儀。っていうか「会えるのを楽しみに待ってます」って、やっぱりちょっとおかしい。いや、嬉しいけど。

 私は苦笑しながら短く返した。

【私も会えるのを楽しみにしています】

 ほどなくして、相原さんから返信が届く。そこには絵文字ひとつ。めちゃくちゃ嬉しそうな顔文字が、ぽつんと画面に浮かんでいた。

 やばい、なんなのそのギャップ。……かわいすぎて、悶え死ぬかと思った。