天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《真一side》
 気づけば毎朝が楽しくなっていた。これまでは決まった時間、決まった電車にただ乗り込むだけだったのに──。

 今は違う。知り合ったばかりの、名前も知らない女性と交わすたった一言が、その朝を特別にしてくれる。

 なぜそんなに嬉しいのか、自分でもまだわかっていない。たぶんだけど、ただ一人で黙って乗る電車で、話し相手ができたことが嬉しいんだろう。うん、きっとそうだ。そうに違いない。

 自分の中で考えがまとまったところで、私は今日も彼女の隣に立つ。

「おはようございます」
「お、おはようございます……」

 いつも彼女は挨拶の後で少しだけどもる。やはり、自分が怖いのだろうか。大柄な体格。無愛想な顔。妹にも「お兄は無表情で何考えてるかわかんない!」と文句を言われたことがある。女性から見たら、威圧感を覚えるのかもしれない。

 ……それでも、彼女とは話がしたかった。怖がられていても、彼女の言葉が、笑顔が、嬉しかったから。

 何か喜んでもらえる話題はないだろうか。そう思っていたとき、ふと彼女のカバンに目がとまった。スマートフォンのストラップとは別に、もう一つ見慣れないキャラクターがぶら下がっている。

「……そのキャラは、スマホのキャラとは別ですか?」

 声をかけると、彼女は一瞬はっとしたように目を見開き、小さくうなずいた。

「こ、この子は……昨日お話ししたゲームとは別のタイトルのキャラで……」

 その言葉はほんの少し恥ずかしそうだったけれど、ストラップを見つめる瞳はやわらかく、そのキャラへの思いがじんわりと伝わってきた。

 控えめな口調の中に、確かな好きがこもっているのがよくわかった。

「若い女性の間で流行っているんですか?」

 そう尋ねると、彼女は首を振った。

「好きな人は好きだと思いますけど……流行ってるというわけでは……」

 そうなんだ、と彼は小さく頷いた。

 大学時代の同級生に「女の子はすぐ流行りに飛びつくからな」と聞かされたことを思い出す。でも彼女はそうじゃない。自分の【好き】を自分で選んで、大切にしている。

 ──なんだか、それがとても素敵に思えた。

「自分の【好き】を貫いてるんですね。そういうの、素敵だと思います」

 自然に出た言葉だった。けれど。

 彼女の顔が、瞬く間に真っ赤になった。

 ……え?

 思わず固まる。体調が悪いのだろうか……。

 ──いや、違う。
 これまでにも同じようなことが何度かあった。他の女性にも厚意のつもりで何気ない言葉をかけたら、真っ赤になって走って逃げられたことがあった。中には叫ばれたこともある。……あれはもしかして、セクハラだったのか?

「……すみません、あの……」

 言いかけたけれど、うまく言葉が出てこない。何を謝るべきなのかもわからず、ただもたもたしているうちに、改札まで来てしまった。

「……では」

 そう言っていつも通りに頭を下げる。けれど、彼女からの返事はなかった。


 ──返事がなかった。

 昼休み、職場のデスクでうなだれていた。

(……やっぱり、セクハラだったのかもしれない)

 思い出すほどに自己嫌悪が募る。そんな自分に声をかけてきたのは、隣のデスクの同僚・小野(おの)だった。

「なに落ち込んでんの? 例の件か?」
「……例の件?」
「おいおい、忘れたのかよ。佐々木(ささき)が盛大にやらかしたやつだよ」

 ああ、と彼は目を伏せる。後輩の佐々木が出した見積もりが、仕様と全然違っていた件か。
 取引先から盛大なクレームが入り、佐々木に泣きつかれ、上司からも手助けを頼まれ、事後処理はすべてこちらに回ってきた。そのせいで、明日から少なくとも二時間早く出勤しなければならなくなった。

(……彼女に会えない)

 そう思った瞬間、胸がきゅう、と締めつけられた。

 ……これはきっと、謝れないままになることへの後悔だ。セクハラまがいのことをして、嫌われたかもしれないまま、もう顔を見られないなんて。


 その日から、彼女に会えない日が続いた。

 そして会えないまま、三日目の朝を迎えた。昨日も、今日も、その姿を見かけることはなかった。
 早朝の会社ロビーで、ふと立ち止まる。

(このまま、もう二度と会えないかもしれない)

(いや、たとえ会えても、今までのように話してはもらえないかもしれない)

 考えれば考えるほど、答えの出ない不安に飲みこまれそうになる。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。

「……ちょっと、出てくる!」

 そう言って職場を飛び出し、最寄り駅へ向かっていった。
 最初は早歩き。そこから小走り、気づけば全力疾走していた。

(頼む、間に合ってくれ……!)

 電車が着く時間に合わせて、ようやく改札に到着する。

 ──いた。

 改札の向こう側で、こちらをきょとんと見つめている彼女が、そこにいた。

 息を切らせながら、彼女のもとへと一歩一歩、歩いていく。真っ先に彼女に謝らなければ──そう思っていた。

 なのに、最初に口から出たのは。

「……会いたかったんです」

 その一言だった。

 ……そうだ。僕は、会いたかったんだ。彼女に。

 この数日の焦燥も、今日ここに来てしまったことも、全部そのひと言で腑に落ちた。それが何を意味するのかはまだわからない。でも、確かに僕はそう思ったのだ。