天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

 ***


 二人の間に会話がないまま、いつもの駅に到着する。改札で「失礼します」と挨拶を交わし、それぞれの会社へ向かった。


 会社に着くと、美咲先輩が声をかけてきた。

「おはよう、ひより。もう大丈夫なの?」
「はい……もう元気です」
「私が聞いてるのは体のことだけじゃないよ。心の方はどう?」

 まっすぐな視線に、言葉がつまる。元気ですとは言えなくて、唇が震えた。

「……まだ少し」

 正直に答えると、先輩は「そっか」と小さく頷いた。


 昼休み。美咲先輩に声をかけられ、一緒に社員食堂で昼食を摂ることになった。

「で、相原さんとの件はどうなったの?」

 トレーを置きながら、周りに聞こえないように声を落とす。
 改めて聞かれて、田中さんに牽制されていること、朝の電車にも田中さんが乗ってくるようになったこと、そして相原さんの様子がおかしいことを伝えた。

「……私の存在は、やっぱり迷惑なんでしょうか?」

 思わず口にすると、美咲先輩は「それは違うと思う」とキッパリ言った。あまりにもはっきりした調子に、思わず目を見開いてしまう。

「迷惑なら、わざわざ今日ひよりに、電車の時間を変更してまで誘ってこないでしょ」

 その言葉が胸に落ちた瞬間、張りつめていたものが少しほどける。

「じゃあ、なんで……」

 どうして、あんなに素っ気ない態度をとるのだろうか。問いかけると、美咲先輩は肩をすくめた。

「わかんないよ、そんなの」

 けれど、その直後、先輩の表情がわずかに曇った。

「でも、もしかして……」

 考え込むように眉間に皺を寄せている。

「何か心当たりがあるんですか?」
「うーん、まだわからない。もう少し様子を見てから話すわ」

 そう言ってごまかされたけれど、先輩の視線の奥には何かを知っているような色が残っていた。
 そこから話題は浩平くんのことに移った。

「そういえば、あの日浩平がひよりのこと可愛いって言ってたわよ」
「え?」
「ひよりに好きな人がいなかったら、アイツをおすすめするんだけどね」

 唐突な一言に、箸を持つ手が止まる。頬が熱くなって、慌てて声を上げた。

「せ、先輩!」
「だって本当のことじゃない。浩平みたいなタイプ、意外とひよりと合うと思うんだけどな」

 確かに浩平くんは優しいし、一緒にいて居心地がいい。けれど、それ以上の気持ちが生まれるわけではない。胸の奥が静かなままだと、私は知っている。

「そんなに思い詰めるなら、浩平と一回遊んでみたら? 気分転換にもなるし」

 美咲先輩の提案に返事をしかねていると、突然スマホが震えた。相原さんからの連絡だった。

『今日、会社帰りにお時間いただけませんか?』

 そこには待ち合わせの時間と場所が記されている。迷いが押し寄せる私の背中を、美咲先輩が押した。

「行きなさい。話さないと何も始まらないでしょ」

 その言葉に勇気を借りて、私はゆっくりとOKの返事を送った。


 ***


 終業後。指定された場所へ向かう。少し早く着いたので、コンビニで飲み物を買い、時間を潰していた。約束の時間が近づき、待ち合わせ場所へ歩き出す。角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは——

 相原さんが、田中さんと抱き合っている姿だった。

 心臓が凍りついたようになり、手からカバンが滑り落ちる。鈍い音に気づいた二人が振り向く。目が合ってしまう。

(……うそ)

 頭の中に、美咲先輩の言葉が蘇る。
『迷惑ならわざわざ今朝みたいに誘ってこない』

 でも、目の前の光景がすべてを否定していた。相原さんは田中さんと付き合っている。そうとしか思えなかった。

「……っ!」

 息が詰まって、その場から駆け出した。

「待ってください!!  違うんです!!」

 背後から必死な声が追いかけてくる。けれど、もう振り向けなかった。

 違う? 何が? 何を?
 この目で見たのに? この胸が張り裂けそうなのに?

 涙で視界が滲む。もう何も信じられなかった。