天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《ひよりside》
 夜。自宅でテレビをつけっぱなしにしていたが、内容はまるで頭に入ってこなかった。そんな時、携帯が鳴る。画面を見るとユキからの着信だった。

「もしもし、ひより?」
「ユキ、どうしたの?」
「あれから、どうなったのかなと思って」

 あれから——雨の夜に泣いていた時のことだろう。ユキに慰められてから、もう随分と時間が経っていた。

 私はこれまでのことをユキに話した。
 相原さんを避けていたこと。
 偶然再会したこと。
 再び一緒に通勤するようになったこと。
 相原さんの彼女に呼び出されたこと。
 そして最近の相原さんの様子が、どこかおかしいこと。

 ユキは一言も挟まず、黙って最後まで聞いてくれた。

「そっか……大変だったね」

 すべて話し終えると、ユキは静かに尋ねた。

「ひよりは、これからどうしたい? この状況で、まだ頑張れる?」

 問いに言葉が詰まる。相原さんへの気持ちは揺るがない。けれど、昨日まであんなに優しかった相原さんの態度が急に素っ気なくなってしまったことを思うと、もしかしたらもう私と関わりたくないのかもしれない——そんな思いが胸の奥で広がっていく。頑張る気力が、すっと消えそうだった。

 私の沈黙を待ったまま、ユキはゆっくりと言葉を続けた。

「私は、好きなら頑張ってほしい。でも、もし辛いなら……諦めてもいいと思う」

 電話越しに届くユキの優しい声が、少しずつ私の硬くなった心を溶かしていく。どうしようもない不安と、自分の不甲斐なさが込み上げ、気づけば涙が頬を伝っていた。

「ユキ……」
「ひよりが幸せになれるなら、どっちでもいいよ。どっちを選んでも私はひよりの味方。ひよりが決めな」

 そう言うと、ユキは軽く息をして、電話は静かに切れた。


 スマホを置いたまましばらくぼんやりしていた時、不意に通知音が鳴った。ユキと話している間に届いていたらしい。画面を見ると、相原さんからのメッセージだった。

『明日の朝は、電車の時間を変更できませんか?』

 そこには、相原さんが乗る電車の時間と車両が書かれている。

 時計を見ると、もう23時半を回っていた。こんな遅い時間に返していいのだろうか。でも返さなければ、断ったと思われてしまうかもしれない。
 迷いながらも、震える指で文字を打つ。

『わかりました』

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で小さな音がした気がした。


 ***


 翌朝、指定された車両で相原さんを待つ。いつもより早い時間帯で、電車もそれほど混雑していない。
 やがて相原さんが乗り込んでくると、私を見つけて軽く会釈をした。その表情は、まだどこかぎこちない。

「おはようございます」
「おはよう、ございます……」

 挨拶を交わしたあと、言葉が途切れる。相原さんも何か言いかけて、結局口を閉じた。
 その沈黙のせいで、胸の奥に不安が広がる。もしかして、笑えない理由は私のせいなのだろうか。そう思った瞬間、心臓が痛むように締めつけられた。私は視線を落とし、カバンの端を指先で握りしめる。

 重苦しい空気を振り払うように、勇気を振り絞って声を出した。

「昨日は遅い時間に連絡して、すみませんでした……」
「あ、ええ……こちらこそ、急に時間を変更してもらってすみません」

 返事は返ってきたけれど、その声はどこか上の空で、私の言葉が本当に届いているのか分からなかった。

 もう話しかけない方がいいのかもしれない。話せば話すほど、彼の気持ちが遠のいてしまいそうで──。

 そう思って横目で相原さんを見ると、唇をかむ仕草をしたり、視線がこちらに向きかけては逸れていったりと、何か言いたげにしている。しかし、結局彼は何も口を開かなかった。

(やっぱり、私の存在が迷惑なんだ……)

 その思いが胸に押し寄せ、息が詰まりそうになる。視界の端が熱くなって、涙がこぼれそうだった。