天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない


 ***


 昼休み、僕は小野と会社近くの定食屋で蕎麦をすすっていた。

「悪いな」

 付き合わせてしまった小野に謝ると、笑いながら「別に構わねぇよ」と言ってくれた。

 この2日の流れから、きっと今日も田中さんが来るだろう。そう考えた僕は、出社してきた小野に外で一緒に昼食を摂ってもらえないかと頼み込んだ。
 小野は二つ返事で了承してくれた。それだけでなく、鉢合わせないようにと、チャイムと同時に事務室を出ることや、エレベーターではなく階段を使うことまで提案してくれた。

「おかげで助かった。感謝してる」

 頭を下げると、小野は少し照れたように笑い、「相原からお礼を言われるなんてな」と軽口を返してきた。その素っ気なさが、小野らしい。


 ようやく落ち着いて休憩をとれたのも束の間、事務室に戻るとそうはいかなかった。
 足を踏み入れた途端、佐々木が駆け寄ってくる。

「相原さん、どこ行ってたんですか! せっかく総務の方がお弁当持ってきてくれたのに!」

 その大声で、部内の視線が一気に僕へ注がれる。……しまった、やはり昨日のうちに釘を刺しておくべきだった。 心の中で舌打ちしながら、佐々木の言葉は聞かなかったことにした。

「そんなことより、午前中に頼んでおいた資料はどうなってる? できてるんだろうな?」

 問いかけると、佐々木は真っ青になって慌てて自分のデスクに走っていった。

 ああ……桐島さんに会いたい……。

 日に日に彼女の笑顔を求める自分に気づきながらも、その奥底にある気持ちにだけは、必死で蓋をし続けていた。


 ***


 週明け。桐島さんに再び会えたと思ったのも束の間、また会えない日々が続いていた。今日こそは会えるのだろうか。

 会いたい――そう願う気持ちに反して、ここ最近の田中さんの行動や、榊との再会で薄れかけていた樹里のことが脳裏をよぎり、なんとも言えない思いで電車を待つ。

 いつもの電車がホームに入る。乗り込むと、そこに桐島さんの姿があった。嬉しくて口元が緩みそうになるが、もう一人の自分が「それでいいのか」と問いかけてくる。

 挨拶を交わすと、桐島さんはここ数日乗れなかったことを謝ってきた。体調が悪かったのだから、気にする必要はない。そう伝えたかったのに、気持ちとは裏腹に素っ気ない態度をとってしまう。

 そんな僕の心を知ってか知らずか、桐島さんが見上げてきた。

「またこうして相原さんに会えて嬉しいです」

「僕もです」「僕も嬉しいです」――そう言いたいのに、口から出たのは「そうですか……」の一言だけだった。

 違う、伝えたかったのはこんなことじゃない。思えば思うほど言葉が出てこない。
 桐島さんの視線を感じながらも、なぜか顔を合わせることすらできなかった。あんなに会いたいと願った人が、すぐ隣にいるというのに。

 考え込んでいた僕の耳に、ここ最近聞きなれた声が届いた。

「おはようございます」

 うんざりする。なぜ僕の言葉は樹里にも彼女にも届かないんだろう。だんだんと僕自身に問題があるような気がしてきた。

 そんなことを考えてると、電車が減速し、停車のアナウンスが流れる。ドアが開くと同時に、桐島さんが勢いよく飛び出していった。

 彼女の後ろ姿を見て、彼女と何も話せていないことに気づく。

「……っ! 桐島さん!」

 慌てて呼び止めるが彼女はこちらを振り返ることなく走り去っていった。追いかけようとしたが人が多すぎて追いつくことができなかった。


 僕はなんてことを……せっかく会えたのに、また桐島さんに失礼な態度を取ってしまった。昼休みにでも改めて謝罪の連絡を入れようと思ってると、後ろから田中さんが話しかけてくる。

「人が多い場所であんなに走っていくなんて……危ない人ですね」

 まるで馬鹿にしたような言い方をする彼女を思わず睨みつけると、びくりと体をすくめていた。
 そのまま田中さんをその場に残し、一人足早に会社へと向かった。


 ***


 昼休みになっても、田中さんは現れなかった。僕の気持ちが、ほんの少しは届いたのだろうか。

 半ば安心しながら小野と外へ食事に向かうと、玄関前に田中さんが立っていた。が、僕は彼女の存在そのものを無視して前を通り抜ける。

 すると田中さんは僕を追いかけて来て「すみませんでした」と謝ってくる。

「あなたが何か謝ることでもしたんですか?」
「わかりません……。でも私の言葉で相原さんを不快にさせたようなので……」
「わからないなら謝ってくださらなくて結構ですよ」
「でも……。あっ……」

 彼女の言葉に振り返る。

「あ、すみません……。真っ赤なスポーツカーだなと思って……」

 訝しみながらも、彼女の指さした方に視線を移す。そこには……。

 ――桐島さん。

 彼女が見知らぬ男性と二人、車に乗っていた。車は茫然とする僕の前を通り過ぎていく。

 桐島さんと変わらない歳の男性と、楽しそうに談笑している姿。目の前の光景を受け入れられず、呼吸さえ忘れてその場に立ち尽くした。