終業後、小野と並んで退勤すると、周囲がこちらを見てひそひそと何かを話していた。不思議に思いながらエレベーターに乗り込むと、他に誰もいないことを確認した小野が口を開いた。
「お前と田中さん、噂になってるぞ」
「え……?」
「お前、田中さんと一緒に通勤してんのか?」
慌てて首を振る。
「いや……」
一緒に来ているわけではなく、勝手に隣に並んで来られているだけだと説明すると、小野が息を吐き出した。
「……隣に並んでる時点で、周りは一緒に通勤してるって思うんだよ」
そんなふうに思われるのか。予想外の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
小野の話はそれだけではなかった。
「最近、田中さんがお弁当を手にお前を誘いに来てるだろ? あれも面白おかしく吹聴されてるぜ」
いつの間にか僕と田中さんは付き合っていることになっていて、しかも「彼女なのに冷たくされている」と同情の目まで向けられているらしい。
「なんでそんな話に……」
思わず絶句する。会社を出て駅へ向かう途中、小野が詳しく教えてくれた。
「前に田中さんに謝罪に行っただろ? あの時、ちゃんと断ったって言ったよな?」
「もちろんだ」
「でもなぜか、総務を中心に“相原からOKの返事をもらった”って話になってるらしい」
「!?」
どうして……あんなにはっきり断ったのに。茫然とする僕に、小野が言った。
「気をつけろよ。あの女、思ったより強かだぜ」
女性のことはいつも丁寧に扱う小野が、あえて「あの女」と呼んだ。その事実が、事態の厄介さを物語っていた。
「……わかった」
小野は、どうしてここまで親切にしてくれるのだろうか。疑問に思って尋ねると、笑いながら答えが返ってきた。
「相原が他の女性を気に掛けるなんて初めてだろ? 応援してんだよ」
そう言いながら背中を軽く叩かれる。そういうものなのかと、ひとまず納得しかけたところで、横からぽつりと声が落ちる。
「……お前には、俺のような思いはしてほしくないからな」
その呟きは小さすぎて、よく聞き取れなかった。
「? 何か言ったか?」
「いや、なんでもない。じゃあな」
会社の徒歩圏内に住んでいる小野と、駅で別れた。
***
帰宅して一人になると、張っていた力が抜けた。この2、3日で考えることが多すぎて、気疲れが抜けない。風呂に入らなきゃ……、何か食べなきゃ……そう思うのに体が動かない。なんとか部屋着に着替えると、そのまま仰向けにベッドへ倒れこんだ。
(桐島さんに会いたい……)
彼女の照れたような笑顔、すぐに真っ赤になって慌てるところ、時々じっとこちらを見てくる瞳。何より、好きなことを語るときのあのキラキラした表情を、今すぐ見たい。
(ただの通勤相手なのに、どうしてこんなことを思ってしまうんだろう……)
考えても答えは出なかった。
***
翌朝も、桐島さんからいつもの電車に乗れないと連絡が来た。大丈夫だろうかと心配する半面、会いたかったという思いが募り、気持ちはさらに沈んでいく。
落ち込んだまま俯いてつり革を握っていると、横から声をかけられた。
「おはようございます」
その声は……! バッと勢いよく顔を上げると、そこにいたのは田中さんだった。
「なんで……」
思わず口にしてしまった自分に、すぐ後悔する。通勤しているのだから、ここにいるのは当然だ。だが僕が知りたかったのは、そういうことではなかった。
僕の戸惑いに気づいているのか、いないのか。田中さんはごく自然に、当然のように隣に立っていた。
小さく声を落として話しかける。
「僕は朝はご一緒できないとお伝えしましたよね?」
「ええ、言ってましたね」
「では、なぜ隣に立たれているんですか?」
問いかけると、田中さんが見上げてくる。
「お約束があると伺っていましたが、この2日ほどはお一人でしたよね。でしたら、私がご一緒しても構わないはずだと思ったんです」
田中さんが一息にそう言うと、ふっと笑みを浮かべた。
「構わないかどうかを決めるのは、あなたではなく僕です。あなたと一緒に通勤するつもりはありません。今後はご遠慮ください」
何度目になるかわからない断りを、繰り返す。
「……分かりました。でも、今日は構いませんよね?」
そう問われ、僕はイエスともノーとも答えられなかった。
そのまま当たり前のように連れ立って会社へ向かう。昨日と同じように田中さんは一方的に話しかけてきたが、僕は何も返さなかった。
会社が近づくにつれ、周囲には社内の人の姿が増えてくる。視線を感じて振り向くと、こちらを見てひそひそと話している人たちの姿があちこちにあった。
『隣に並んでる時点で、周りは一緒に通勤してるって思うんだよ』
『気をつけろよ。あの女、思ったより強かだぜ』
昨日の小野の言葉が蘇る。
この状況を狙って作り出しているのだとすれば、小野の忠告通りだったのだろう。まんまと田中さんの思い描く状況になってしまっていることに、ぐっと奥歯を嚙み締めた。
「お前と田中さん、噂になってるぞ」
「え……?」
「お前、田中さんと一緒に通勤してんのか?」
慌てて首を振る。
「いや……」
一緒に来ているわけではなく、勝手に隣に並んで来られているだけだと説明すると、小野が息を吐き出した。
「……隣に並んでる時点で、周りは一緒に通勤してるって思うんだよ」
そんなふうに思われるのか。予想外の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
小野の話はそれだけではなかった。
「最近、田中さんがお弁当を手にお前を誘いに来てるだろ? あれも面白おかしく吹聴されてるぜ」
いつの間にか僕と田中さんは付き合っていることになっていて、しかも「彼女なのに冷たくされている」と同情の目まで向けられているらしい。
「なんでそんな話に……」
思わず絶句する。会社を出て駅へ向かう途中、小野が詳しく教えてくれた。
「前に田中さんに謝罪に行っただろ? あの時、ちゃんと断ったって言ったよな?」
「もちろんだ」
「でもなぜか、総務を中心に“相原からOKの返事をもらった”って話になってるらしい」
「!?」
どうして……あんなにはっきり断ったのに。茫然とする僕に、小野が言った。
「気をつけろよ。あの女、思ったより強かだぜ」
女性のことはいつも丁寧に扱う小野が、あえて「あの女」と呼んだ。その事実が、事態の厄介さを物語っていた。
「……わかった」
小野は、どうしてここまで親切にしてくれるのだろうか。疑問に思って尋ねると、笑いながら答えが返ってきた。
「相原が他の女性を気に掛けるなんて初めてだろ? 応援してんだよ」
そう言いながら背中を軽く叩かれる。そういうものなのかと、ひとまず納得しかけたところで、横からぽつりと声が落ちる。
「……お前には、俺のような思いはしてほしくないからな」
その呟きは小さすぎて、よく聞き取れなかった。
「? 何か言ったか?」
「いや、なんでもない。じゃあな」
会社の徒歩圏内に住んでいる小野と、駅で別れた。
***
帰宅して一人になると、張っていた力が抜けた。この2、3日で考えることが多すぎて、気疲れが抜けない。風呂に入らなきゃ……、何か食べなきゃ……そう思うのに体が動かない。なんとか部屋着に着替えると、そのまま仰向けにベッドへ倒れこんだ。
(桐島さんに会いたい……)
彼女の照れたような笑顔、すぐに真っ赤になって慌てるところ、時々じっとこちらを見てくる瞳。何より、好きなことを語るときのあのキラキラした表情を、今すぐ見たい。
(ただの通勤相手なのに、どうしてこんなことを思ってしまうんだろう……)
考えても答えは出なかった。
***
翌朝も、桐島さんからいつもの電車に乗れないと連絡が来た。大丈夫だろうかと心配する半面、会いたかったという思いが募り、気持ちはさらに沈んでいく。
落ち込んだまま俯いてつり革を握っていると、横から声をかけられた。
「おはようございます」
その声は……! バッと勢いよく顔を上げると、そこにいたのは田中さんだった。
「なんで……」
思わず口にしてしまった自分に、すぐ後悔する。通勤しているのだから、ここにいるのは当然だ。だが僕が知りたかったのは、そういうことではなかった。
僕の戸惑いに気づいているのか、いないのか。田中さんはごく自然に、当然のように隣に立っていた。
小さく声を落として話しかける。
「僕は朝はご一緒できないとお伝えしましたよね?」
「ええ、言ってましたね」
「では、なぜ隣に立たれているんですか?」
問いかけると、田中さんが見上げてくる。
「お約束があると伺っていましたが、この2日ほどはお一人でしたよね。でしたら、私がご一緒しても構わないはずだと思ったんです」
田中さんが一息にそう言うと、ふっと笑みを浮かべた。
「構わないかどうかを決めるのは、あなたではなく僕です。あなたと一緒に通勤するつもりはありません。今後はご遠慮ください」
何度目になるかわからない断りを、繰り返す。
「……分かりました。でも、今日は構いませんよね?」
そう問われ、僕はイエスともノーとも答えられなかった。
そのまま当たり前のように連れ立って会社へ向かう。昨日と同じように田中さんは一方的に話しかけてきたが、僕は何も返さなかった。
会社が近づくにつれ、周囲には社内の人の姿が増えてくる。視線を感じて振り向くと、こちらを見てひそひそと話している人たちの姿があちこちにあった。
『隣に並んでる時点で、周りは一緒に通勤してるって思うんだよ』
『気をつけろよ。あの女、思ったより強かだぜ』
昨日の小野の言葉が蘇る。
この状況を狙って作り出しているのだとすれば、小野の忠告通りだったのだろう。まんまと田中さんの思い描く状況になってしまっていることに、ぐっと奥歯を嚙み締めた。


