《真一side》
朝から頭が重い。酒のせいか、眠れなかったせいか、それとも――考えたくもない理由のせいか。夢を見た覚えもないのに、目覚めは最悪の気分だった。
大学時代のあの出来事は、消し去ろうとしても心の奥に棘のように残り続けていた。女性とは必要以上に距離を置き、恋愛を避け、ただ仕事に邁進する日々。これから先も一人で生きていく。それでいいと思ってた。
そんな僕の日々に彩りをくれたのは桐島さんだった。彼女の楽しそうな顔、きらきらと輝いた瞳を見てるともっと見ていたい、傍にいたいと思うようになった。彼女と過ごしていく中で、樹里のことは少しずつ思い出となって薄れてきていた。
――そんなこと、僕が許されるはずもないのに。
鈍く重たい頭を無理やり押し起こし、出勤準備を整える。今日、桐島さんと顔を合わせて平然としていられる自信はなかった。表情が晴れない。こんな顔を見せてはいけないと思う反面、彼女の笑顔を見たい気持ちも拭いきれなかった。
いつもの時間のいつもの電車。到着して乗り込むと、そこにはいつもいるはずの桐島さんはいなかった。
(時間を間違えたのか? それとも……)
やはり避けられてるのだろうか。昨日の約束も僕が無理やり取り付けたようなものだ。思わずため息をついたその瞬間、耳の奥で懐かしい声がよみがえる。
『真一だけが幸せになるなんて許さない』
ふと、もう何年も聞いていない樹里の声が聞こえた気がした。
気のせいだ……、彼女はここにはいない。
自分に言い聞かせるように、つり革を握る手に力を込めた。その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して見ると、桐島さんからだった。
『すみません、風邪を引いてしまい今日はお休みすることにしました。お約束したのに、電車に乗れなくてごめんなさい』
……風邪か。胸の奥に詰まっていた不安が、少しだけ解けていく。昨日の夜は急な雨だった。もしかして傘を持っていなくて濡れたのかもしれない。
避けられたのではないと分かり、安堵する自分がいる一方で、体調を崩した彼女を思うと胸がざわついた。片手でスマホを操作し、返事を送る。
『大丈夫ですか? 無理はなさらず、ゆっくり休んでください』
彼女の自宅を知っていればお見舞いに行くのに。そこまで思い至って、はっと我に返る。……ただの通勤仲間に、そんなことまで考えるなんて。樹里との一件から、人との距離感が分からなくなっていた。
改札を抜け、会社に向かって歩き出すと後ろから声をかけられた。
「おはようございます」
振り返るとそこにいたのは田中さんだった。いつもは会わない相手と朝から出会う。それもできる限り会いたくはない相手に。
思わず「どうしてここに」と言いかけて、慌てて口をつぐむ。どうしても何も最寄り駅はここなのだから、通勤時間に出会っても不思議ではない。ただ、これまでは不思議と出会わなかったのに。そう思うと、わざと時間を合わせてきたのではと疑いたくなる。
内心ではうんざりしながらも、表情だけは崩さずに淡々と返す。
「おはようございます」
彼女は当たり前のように隣に並んで歩き出す。こういう場合は話をしながら通勤するのが普通なのだろうか。でも、できれば今は誰とも話したくない。そんな僕の気持ちはお構いなしに田中さんは話しかけてくる。
「別の方とお約束されてるとのことでしたが、今日はお一人なんですね」
「……そうですね」
気持ちを表に出さないように努めてはいるが、どうしてもぶっきらぼうな答え方になってしまう。
「明日もお一人なんですか?」
「……そんなことを聞いてどうされるんですか?」
「もちろん、お一人ならご一緒させていただこうと思って」
「お断りします」
間髪入れずにきっぱり断る。昨日はあれ以上強く言えなかった。でも今日は違う。樹里のことが頭をよぎって、親切にする余裕なんてなかった。
「……そうですか。残念ですけど、仕方ないですね」
あっさり身を引く彼女にホッとする半面、何かがあるのかと疑ってしまう。そんなこちらの視線に気づいたのだろう、にっこり微笑んで、少し間を置いてから言った。
「あまりしつこくして嫌われてしまうのは本意ではないので。でもとりあえず今は、会社まではご一緒してもいいですか?」
そう聞かれてしまうと断りづらい。
「……お好きにどうぞ」
言葉を返すと、そのまま二人無言のまま会社へと向かった。
エレベーターに乗り込んだ後、先に降りる彼女はこちらを振り向き「失礼します」と綺麗なお辞儀をして降りて行った。扉が閉まると同時に、深いため息が落ちる。朝から気持ちが晴れなかった。
朝から頭が重い。酒のせいか、眠れなかったせいか、それとも――考えたくもない理由のせいか。夢を見た覚えもないのに、目覚めは最悪の気分だった。
大学時代のあの出来事は、消し去ろうとしても心の奥に棘のように残り続けていた。女性とは必要以上に距離を置き、恋愛を避け、ただ仕事に邁進する日々。これから先も一人で生きていく。それでいいと思ってた。
そんな僕の日々に彩りをくれたのは桐島さんだった。彼女の楽しそうな顔、きらきらと輝いた瞳を見てるともっと見ていたい、傍にいたいと思うようになった。彼女と過ごしていく中で、樹里のことは少しずつ思い出となって薄れてきていた。
――そんなこと、僕が許されるはずもないのに。
鈍く重たい頭を無理やり押し起こし、出勤準備を整える。今日、桐島さんと顔を合わせて平然としていられる自信はなかった。表情が晴れない。こんな顔を見せてはいけないと思う反面、彼女の笑顔を見たい気持ちも拭いきれなかった。
いつもの時間のいつもの電車。到着して乗り込むと、そこにはいつもいるはずの桐島さんはいなかった。
(時間を間違えたのか? それとも……)
やはり避けられてるのだろうか。昨日の約束も僕が無理やり取り付けたようなものだ。思わずため息をついたその瞬間、耳の奥で懐かしい声がよみがえる。
『真一だけが幸せになるなんて許さない』
ふと、もう何年も聞いていない樹里の声が聞こえた気がした。
気のせいだ……、彼女はここにはいない。
自分に言い聞かせるように、つり革を握る手に力を込めた。その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して見ると、桐島さんからだった。
『すみません、風邪を引いてしまい今日はお休みすることにしました。お約束したのに、電車に乗れなくてごめんなさい』
……風邪か。胸の奥に詰まっていた不安が、少しだけ解けていく。昨日の夜は急な雨だった。もしかして傘を持っていなくて濡れたのかもしれない。
避けられたのではないと分かり、安堵する自分がいる一方で、体調を崩した彼女を思うと胸がざわついた。片手でスマホを操作し、返事を送る。
『大丈夫ですか? 無理はなさらず、ゆっくり休んでください』
彼女の自宅を知っていればお見舞いに行くのに。そこまで思い至って、はっと我に返る。……ただの通勤仲間に、そんなことまで考えるなんて。樹里との一件から、人との距離感が分からなくなっていた。
改札を抜け、会社に向かって歩き出すと後ろから声をかけられた。
「おはようございます」
振り返るとそこにいたのは田中さんだった。いつもは会わない相手と朝から出会う。それもできる限り会いたくはない相手に。
思わず「どうしてここに」と言いかけて、慌てて口をつぐむ。どうしても何も最寄り駅はここなのだから、通勤時間に出会っても不思議ではない。ただ、これまでは不思議と出会わなかったのに。そう思うと、わざと時間を合わせてきたのではと疑いたくなる。
内心ではうんざりしながらも、表情だけは崩さずに淡々と返す。
「おはようございます」
彼女は当たり前のように隣に並んで歩き出す。こういう場合は話をしながら通勤するのが普通なのだろうか。でも、できれば今は誰とも話したくない。そんな僕の気持ちはお構いなしに田中さんは話しかけてくる。
「別の方とお約束されてるとのことでしたが、今日はお一人なんですね」
「……そうですね」
気持ちを表に出さないように努めてはいるが、どうしてもぶっきらぼうな答え方になってしまう。
「明日もお一人なんですか?」
「……そんなことを聞いてどうされるんですか?」
「もちろん、お一人ならご一緒させていただこうと思って」
「お断りします」
間髪入れずにきっぱり断る。昨日はあれ以上強く言えなかった。でも今日は違う。樹里のことが頭をよぎって、親切にする余裕なんてなかった。
「……そうですか。残念ですけど、仕方ないですね」
あっさり身を引く彼女にホッとする半面、何かがあるのかと疑ってしまう。そんなこちらの視線に気づいたのだろう、にっこり微笑んで、少し間を置いてから言った。
「あまりしつこくして嫌われてしまうのは本意ではないので。でもとりあえず今は、会社まではご一緒してもいいですか?」
そう聞かれてしまうと断りづらい。
「……お好きにどうぞ」
言葉を返すと、そのまま二人無言のまま会社へと向かった。
エレベーターに乗り込んだ後、先に降りる彼女はこちらを振り向き「失礼します」と綺麗なお辞儀をして降りて行った。扉が閉まると同時に、深いため息が落ちる。朝から気持ちが晴れなかった。


