天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《ひよりside》
 田中さんと向き合った翌日、私はあっさりと風邪を引いて寝込んでいた。昨日、長時間雨に打たれたせいだろう。体の芯が重く、熱で頭がぼんやりする。

 会社に病欠の連絡を入れ、ベッドに倒れこむ。時計を見ると、ちょうどいつも相原さんと電車に揺られている頃だった。

(相原さん、心配してるかな……)

『朝は、ご一緒できますよね?』
 そう聞かれて『はい』と答えたのに、今朝の私はそこにいない。

 恋人でもないのに「今日は乗りません」と連絡するのは変だろうか。心配させたくないのに、どうすればいいか分からない。スマホに伸ばしかけた指先を何度も止め、そのまま布団に沈んでいった。

 熱で朦朧とする中、不意に昨日の田中さんの言葉が耳の奥で蘇った。

『私がその場に居合わせても構いませんよね?』

 ダメだ、それは嫌だ。恋人同士なんだから、一緒にいることはおかしくない。むしろ、私の方が邪魔者なのは分かってる。でも、朝の時間だけは——誰にも邪魔されたくない。あの時間だけは、私と相原さんだけで大切にしたい。

 今さら遅いかもしれないけど、相原さんに連絡しよう。

 のろのろとベッドから這い出し、スマホを手に取る。体の熱とは別の震えが、指先を揺らす。意を決して、メッセージを送った。

『すみません、風邪を引いてしまい今日はお休みすることにしました。お約束したのに、電車に乗れなくてごめんなさい』

 一分も経たないうちに返信が届く。

『大丈夫ですか? 無理はなさらず、ゆっくり休んでください』

 その落ち着いた文字を見て、力が抜けた。もっと何か言ってほしい気もしたけれど、今はただ安心が勝った。私はそのまま、深い眠りに落ちていった。


 結局、風邪が治って出勤できるようになるまで3日かかった。土日を挟めば、実に5日間も家で過ごしたことになる。

 休んでいた間、相原さんとは以前のように連絡を取り合っていた。とはいえ『今日も乗れません』『わかりました。お大事に』——ただそれだけのやり取り。でも、その短いやり取りがあるだけで、心細さは少し和らいでいた。

 週明け、月曜日。久しぶりにいつもの電車に乗る。

(相原さんに会える……)

 そう思った瞬間から、胸の奥で心臓が暴れ出し、呼吸すら落ち着かなくなった。

 相原さんに田中さんという恋人がいることは分かっている。けれど田中さんと直接話して、痛感した。あの人には、相原さんを渡したくない。

 正直、渡すも何も、もう二人は付き合っている。今さら私が何かしたところで、無意味なのは分かっている。それでも——理由なんて説明できないけど、田中さんが相原さんを本当に理解して大切にしてくれる人だとは、どうしても思えなかった。

 一人でそんなことを考えていると、相原さんが乗り込んできた。いつもの場所にいる私の姿を見て、ほんの一瞬だけ視線を揺らし、ぎこちなく微笑んだ。

「おはようございます」
「おはようございます……。あの、すみませんでした。約束したのに、今まで乗ってこれなくて……」
「気にしないでください。お元気になられたようで良かったです」

 なぜだろう。相原さんの声色が、ほんの少しだけ冷たく感じられた。

 胸に小さな違和感が残ったが振り払うように深呼吸し、心臓の高鳴りを抑えながら、勇気を振り絞って素直な気持ちを伝える。

「またこうして相原さんに会えて、嬉しいです」

 すると、相原さんは困ったような顔をして、「そうですか……」と一言だけ返してきた。

(え……)

 これまでとは違う相原さんの態度に、戸惑いが広がる。胸の奥に、じわじわと不安が染み込んでいく。

『好きなら頑張って』——そう言って励ましてくれた美咲先輩の言葉を、頭の中で繰り返す。
 そうだ、頑張らないと。頑張らないと、何も変わらない。

 そう思って話しかけようとした瞬間、電車が次の駅に停車した。私たちの降りる駅はまだ先だ。気にせず口を開こうとしたその時——

「おはようございます」

 女性の声が耳に飛び込んできた。顔を上げると、そこに立っていたのは田中さんだった。