天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

「ごめん……僕はもう、君とは付き合えない」
「え……」

 理解できない、信じられないと、彼女の表情が物語ってくる。だが、僕の気持ちは変わらない。

「今、なんて……」
「……もう、終わりにしたい。………………別れよう」

 このまま付き合いを続けていってもお互いのためにならない。告げることに躊躇いがなかったわけではない。でも妹にまで牙を剥く彼女と、この先を共にすることはできない——その思いが胸の奥で膨れ上がり、言葉となって口から零れ落ちた。

 僕の言葉を黙って聞いていた樹里の目から次々と涙が溢れ出てきた。そんな彼女を僕はただ黙って見つめる。

「……嫌よ」
「……樹里」
 ​「嫌ったら嫌!! なんで急にそんなこと言うの!! 私のこと好きだって言ったじゃない! 大切にしてくれるって言ったのは嘘だったの!?」

 樹里は泣き叫びながら、僕の体を殴りつけてくる。

 嘘じゃない。僕は本当に樹里のことが好きだったし、大切にしたいと思っていた。こんな風に泣かせたりなんかしたくなかった。でも……。

「ごめん……。もうこれ以上、君の傍にはいられない」

 きっぱり告げる僕を見て、もう意見を翻さないことを察したのだろう。樹里は僕を激しく罵りはじめた。

 ​「……嘘つき。嘘つき! 嘘つき!! ずっと一緒にいるって言ったくせに! 私のこと大切にするって言ったくせに! なんにも大切になんかしてくれなかったじゃない!」
「嘘じゃない。本当に君とずっと一緒にいたいと思ったし、大切にしたかった。でも……」
「これからもずっと一緒にいてくれないなら、そんなの嘘と一緒よ!!!」

 樹里の叫び声が胸に突き刺さる。でも僕の気持ちはもう変わらない。

「……別れないから」
「え……」
 ​「私、絶対に別れたりなんかしない! 死んでも真一から離れないから!!!」

 そう叫ぶと、樹里はその場から走り去っていった。

 それからというもの、樹里からは一日に何十通も連絡が来るようになった。
『おはよう』
『今どこ?』
『どうして返事くれないの?』
『会いたい』
 ——朝から深夜まで、ひっきりなしに。

 次第に息が詰まり、僕はスマホの電源を切るようになった。
 頭では、樹里ともう一度話し合わなければならないと分かっていた。けれど彼女が冷静にならない限り、同じことの繰り返しになる気がした。だから僕は、ただその時が来るのを待ち続けた。

 ——ただ逃げていただけだったのに。
 その選択が間違いだと気づいたときには、もう手遅れだった。


 樹里に別れ話をしてから数週間後のことだった。その時にはスマホを持ち歩くことすらやめていて、僕の唯一の連絡手段は自宅の電話だけになっていた。ある日、家でレポートを書いていると、同じゼミの知人から電話がかかってきた。

「おい、相原。お前、聞いたか?」
「? 何をだ?」
「野上のことだよ!」

 樹里? 樹里がどうした? 問い返そうとした瞬間、胸の奥でざわりと不安が広がる。悪い予感に喉が詰まり、声が出なかった。

 黙り込んだ僕に、彼は畳みかけるように告げた。
「今さっきゼミ仲間から聞いたんだけど……あいつ、自殺図ったらしい」

「え……?」

 そこから先のことは、ほとんど記憶にない。確かに搬送先の病院を聞き、足を運んだはずだ。樹里の両親から「もう会わないでほしい」と言われたことも覚えている。けれど、あの日の出来事は、断片的にしか思い出せない。

 幸い、命に別状はなかったらしい。療養を兼ねて実家で過ごしていると聞いた。
 それから今日まで、彼女とは一度も連絡を取っていない。——いや、取れなかった。


 僕はいったいどうすれば良かったのだろうか。彼女を好きだと思ったあの時の気持ちは勘違いだったのだろうか。彼女と付き合うことを決めた僕が全ての元凶だったのだろうか。

 考えても考えても答えは出なかった。
 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 ――もう僕は誰のことも好きにならない。

 いや、それ以上に、人を好きになることそのものが恐ろしくなった。好かれることも、好いてしまうことも、胸の奥を締めつけるほどの恐怖でしかなかった。だから……。

(だから僕が今、桐島さんに抱いているこの気持ちは恋なんかじゃない。決して、恋なんかじゃないんだ……)

 ​そう、必死に自分に言い聞かせていた。