天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

 気づかない間に雨が降り止んでいたようだ。店から出て濡れた道を一人駅へと向かう。足が重いのはまだアルコールが体内に残ってるからなのか、それとも……。

 駅までの夜道に一人歩きながら、榊の言葉が脳内に蘇る。

『お前はいつまで大学時代のことを引きずってるんだ?』

 引きずりたいわけじゃない。忘れられるものなら忘れたい。でも、もう一人の自分が忘れるな、と何度も何度も囁きかけてくる。

 あの頃、大学に行くたび自然と樹里の姿を探したし、彼女が笑いかけてくれるだけでどうしようもなく幸せな気持ちになれた。彼女が困れば手を差し伸べたくなるし、僕にできることがあるなら何でもしてあげたいと思った。ああ、これが人を好きになるという気持ちなんだと信じて疑わなかった。

 そんな樹里から「私の彼氏になってくれませんか?」と言われたときは、動悸が激しすぎて自分の体がどうにかなるんじゃないかと思った。

 顔を真っ赤にしながら目を潤ませてこちらを見上げてくる樹里に、早く返事をしなければと思えば思うほど言葉が出てこなかった。

『僕で良ければ、喜んで』
『僕も君が好きです』

 言いたい言葉はたくさんあったはずなのに、間抜けにもその時の自分の口から出たのは「はい」の一言だけだった。

 そんな情けない僕の返事に対して、樹里は零れんばかりの笑みを見せてくれた。喜びで細められた瞳からは一筋の涙が流れ落ちた。その涙は、僕が生きてきた中で一番美しいものに思えた。
 あの瞬間、僕は心の奥で『この人を一生大切にしよう』と当たり前のように誓っていた。

 ​その誓いに嘘はなかった……はずだった。


 付き合い始めてしばらくすると、樹里の態度が少しずつ変わり始めた。僕が他の女性と話すことを、殊の外嫌がるようになったのだ。

 ゼミで女子と会話していると、「今、あの子と何を話してたの?」と執拗に問いただされる。

 助教授と研究の話をしている最中でも、「もういいでしょ。あっちへ行きましょう」と割って入られる。

 売店やコンビニで女性の店員と話すだけでも不機嫌になり、「私が代わりに買ってくるから」と遮られた。

 そして極めつけは妹・日菜子のことだった。
 ある日、忘れ物をした僕は家に連絡を入れた。当時家には日菜子しかおらず、まだ中学生だった妹に頼んで持ってきてもらうことになった。日菜子は成長が早く大人びた雰囲気があり、知らない人が見れば高校生くらいに思うだろう。

 大学前で待っていた僕のもとに日菜子がやってきて少し談笑していた、その時だった。樹里が鬼のような形相で僕たちの間に割って入った。無言のまま日菜子を睨みつけ、その視線の鋭さに僕は思わず息を呑んだ。
 次の瞬間には僕の腕を強く掴み、その場から乱暴に引きずっていったのだ。


 腕を強く掴まれ、半ば引きずられるように校舎裏へと連れていかれたと同時に、樹里はものすごい勢いで喚き始めた。

 ​「ねえ、どうして!? 私以外の女の人と話したりしないでって言ったじゃん! なんで話したりすんの!?」

 ​目に涙を溜めながら、怒りを僕にぶつけてくる。

 ​「いや、さっきのはいも……」
 ​「嫌だって言ったじゃん! 真一が他の人から言い寄られたりするのが心配だからやだって言ったじゃん! どうして、私が嫌だって言ったことするの!? なんで私のこと大切にしてくれないの!?」

 妹で、と言おうとした僕の言葉にかぶせて目の前で泣き叫ぶ彼女を見ていると、あんなに好きだったはずなのに、どうして惹かれたのかすら思い出せなくなっていった。彼女は本当に僕が好きになったあの時の彼女と同じ人なんだろうか。

 顔を真っ赤にして目に涙を溜めている樹里。状況は告白された時と同じなはずなのに、今の僕の気持ちはあの時とは全く別の気持ちだった。

「ごめん……」
「謝るくらいならもうしないで!!」
「ごめん……」
「……」
「ごめん、樹里……」
「……分かったから。次からは気を付けてね」

 そう言いながら、僕に抱きついてこようとする樹里の肩を、僕はそっと掴んで止めた。

「え……?」

 何が起こったのか分からないといった顔で、樹里が僕を見上げてくる。その顔を見ながら、僕は覚悟を決めて口を開いた。