天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

 大学時代から榊は女性にモテていた。いつも違う女性と連れ立っていて、僕の目には軽薄にしか映らなかった。

 けれど、細身ながら引き締まった体躯や、愛嬌すら感じさせる整った顔立ち。軽快な話術に、自然と相手を安心させる振る舞い。そうしたものが彼を「軽薄」ではなく「魅力的」にしていたのだと、今なら分かる。

 僕が彼に勝っていたのは、ほんの数センチの身長くらいだろう。
 田中さんの誘いを軽く受け流すのも、桐島さんを楽しませるのも、榊なら容易いはずだ。

 そう考えた瞬間、胃の奥がきゅっと縮むように痛んだ。

(……なんだ、この感覚は)

 思わず首を傾げる僕を、榊がじっと見据えて口を開いた。

「お前は、大学時代から何も変わんねぇな」
「……? そうか? あの時より少し老けた気がするが……」
「そうじゃねぇよ。見た目の話じゃなくて――中身の話だ」

 中身……?  卒業以来会ってなかったのに、どうしてそんなことが分かるんだ。

「さっきから聞いてたけどさ……お前、まだ大学時代のことを引きずってんだろ」
「……!」

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、体が強張る。

「桐島さん、だっけ? その子と昔の彼女は別人だ。お前だって、あの時の気持ちと今の気持ちは違うはずだ……本当は、気づいてるんじゃないのか?」

 ガタンッ――!

 抑えきれない感情を遮るように、僕は勢いよく立ち上がった。

「相原……?」

 小野が心配そうにこちらを見ている。だが悪いが、今の僕には取り繕う余裕などなかった。

「……悪いが、先に失礼させてもらう」

 カウンターに代金を置き、店を飛び出す。

「おい! 相原!」

 小野の声が背中に届く。それでも僕は、聞こえないふりをして歩き出した。


 ***


「……逃げやがったな」

 相原の知り合いらしい男が、ぼそりと言葉をこぼした。その言葉を聞いて、俺は相原の座っていた席に腰を下ろす。

「相原の知り合いなんですよね? 今の話、どういうことなんですか?」

 本人のいないところで過去の話を聞くのは、無礼だとわかっている。それでも今は、聞いておいた方がいい気がした。

 一瞥してきた男は、雑誌から抜け出したような整った顔立ちをしていた。相原と並んでいれば、女性たちが騒いだに違いないと容易に想像できる。

「君は……」
「相原と同じ会社で働いてます、小野と言います」
「榊です。相原とは大学もゼミも一緒でした」

 軽く挨拶を済ませ、もう一度聞く。

「それで、さっきの話ってどういうことなんですか? 良ければ聞かせてください」

 ただの興味本位ではないと悟ったのだろう。榊はグラスを傾け、一口ビールを飲んでからゆっくりと口を開いた。


「今もそうなんだろうけど、大学時代の相原は女性にモテてたんですよ」

 昔を思い出すかのように、榊は遠い目をしながら語りだした。

「見目がいいだけじゃなく、真面目で、誠実でさ。成績だって悪くない。そんな男を、周りの女性が放っておくはずないでしょう? 色んな子が告白しては、あっさり振られていきましたよ」

 そこで言葉を切ると、少し声を落として続ける。

「そんな中で、一人だけ相原と親しくなった子がいたんですよ。小柄で、控えめな感じの子で……名前は確か、野上樹里(のがみじゅり)っていったかな。ゼミが同じで、よく一緒に帰ってた。見てる限りじゃ、相原もまんざらじゃなさそうだったな」

 榊はグラスを傾けて、一息つく。

「ある日、大学構内で二人が腕を組んで歩いてるのを見たんです。……ああ、付き合い始めたんだなって思いましたよ。学内でも噂になった。『あの相原に遂に彼女ができた』ってね」

「でも、半年くらい経った頃だったかな。久しぶりに見かけた相原は、少しやつれてました。顔色も悪くて、心配になって声をかけたんです。何かあったのかと聞いたら……『彼女と別れた』と。俺はてっきり、失恋で落ち込んでるんだと思ってました」

 榊の表情が、ふっと陰を帯びる。

「しばらくすると、大学内でまた噂が広がり始めたんですよ。野上が自殺未遂を起こしたらしいって。原因は相原に振られたことじゃないか――周りはそう言ってましたね」

「そのまま野上は休学して、結局、俺も姿を見ないまま卒業しました。真偽を確かめようにも……相原は元気がないままだったんで、聞くに聞けなかったんです」

 榊はグラスを置き、淡々とした口調で続ける。

「そしてそれ以降、彼は人と――特に女性と――距離を置くようになりまして。ですから事実は今も分かりません。ただ、先ほど耳にしたやり取りから推測するに……過去の出来事が、今も根底に影響しているのでしょう」

「で、それ以来、あいつは人と――特に女性と距離を置くようになった。だから、さっき聞いた話も……結局はその時のことが根っこにあるんだろうなって思ったんです」

 そこから先は、言葉にしなくても理解できた。
 だからこそ相原は、自分の気持ちに無意識のうちに蓋をしているのだろう。

「ま、俺たちにできることはないですよ。これは、あいつ自身が乗り越えなきゃいけない壁ですから」

 榊の言葉に、俺は静かに頷いた。
 確かに、外から手を出せることなんてない。けれど俺は……。

(……でも、相原。お前が困ってるなら、俺はいつだって相談に乗るからな)