天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

 ***


 幸枝は喫茶店を出ると、そっと息を吐いた。胸の奥にあった緊張がほどけ、安堵のため息が漏れる。

(やっぱり――彼女は、私と相原さんが“付き合っている”と勘違いしているのね)

 先日の告白のとき、相原さんの後ろで物陰に身を隠す女性の姿を確かに見た。
 どこかで見覚えがあるような気がしたけれど、あの時は自分の告白で頭がいっぱいで、確かめる余裕なんてなかった。振られたショックもあり、考える余地などなかったのだ。

 思い出したのはその後。
 事の顛末を聞いた同僚たちが、自分のことのように腹を立ててくれて――その雑談の中で「そういえば、相原さんって朝の電車で女性と楽しそうにしてるよね」と一人が言い出した。

 私も何度か見かけたことがあった。彼の傍らで、無邪気に笑う小柄な女性。
 その姿と、あの時隠れていた影がぴたりと重なった。

 ――そう。彼女だ。
 相原さんと一緒に通勤しているあの女性こそが彼と一緒に通勤してる女性だ、と。

 今日の昼休みに彼と話したのも、彼女の存在が頭から離れなかったからだ。
 相原さんの気持ちを探るには十分だった。

(やっぱり――彼はまだ自分の本心に気づいていない)

 彼は「好きな人はいない」と言った。
 その言葉を額面通りに受け取るつもりはない。
 朝のホームでふと向ける視線の柔らかさ、名前を呼ぶ時の声音。
 彼女に向けられるものだけが、あまりに特別すぎる。

 だからこそ、今が私の賭けどころだ。
 彼が自分の気持ちに気づいていないうちに。
 そして、彼女がまだ誤解に囚われているうちに。

「告白する勇気もない人に、彼を渡す気はないわ」

 夜風に紛れるように呟くと、唇の端に小さな笑みが浮かんだ。
 その声を聞く者は誰もいなかった。


 ***


(そういえば、朝の天気予報で「夜から雨」と言っていたっけ……)

 雨粒に打たれながら、ぼんやりとそんなことを思い返す。

 今朝は久しぶりに相原さんと並んで通勤することになって、気持ちが浮き立っていた。天気予報の言葉なんて右から左へ抜けていって、傘を持たずに家を出てしまった。

 会社に戻ればロッカーに折り畳み傘がある。でもこれから会社に戻る気力なんて、今の私には残っていなかった。

 とぼとぼと夜道を歩く。最初は小雨だと思っていたのに、気づけばしとしとと冷たい雨脚が強まり、髪から雫が滴り落ちるほどに濡れていた。シャツもスカートもじわりと重くなり、身体の芯まで冷えていく。

「……ひより?」

 突然名前を呼ばれて、重たくなった顔を上げる。
 雨越しに見えたのは、美咲先輩だった。