天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

 ***


 ​昼休み。僕は意を決して総務へ足を運んだ。
 事務室へ踏み入れた途端、そこにいる女性たちの視線が一斉に突き刺さる。冷たいような、探るような視線に、背筋が思わず伸びる。

 受付カウンターに立つ女性に声をかけた。

「すみません、田中さんはいらっしゃいますか?」

 一瞬の沈黙のあと、女性はじろりと僕を睨み、低い声で「……少々、お待ちください」とだけ告げて、奥へと歩いていった。

 しばらくすると、田中さんが姿を現した。……なぜか後ろには数人の女性陣を従えて。
 一斉に注がれる視線の圧に、心臓がひときわ強く脈打つ。

「お疲れ様です」

 他の女性たちの冷たい空気とは対照的に、田中さんは柔らかな笑顔で声をかけてきた。

「お昼休み中にすみません。少しお時間いただけますか」

 そう伝えると、田中さんは控えめに微笑み「はい」と頷いてくれた。
 突き刺さるような複数の視線を背に、僕は彼女を人気のない階段の踊り場へと案内した。



「お話とは何でしょうか?」

 促され、僕は何も言わずに真っ先に頭を下げた。腰を直角に折り曲げ、深々と。

「え……?」

 田中さんの小さな声が聞こえる。けれど顔を上げずに、言葉を続けた。

「先日は大変申し訳ありませんでした。田中さんからの真摯なお言葉に対して、不誠実な対応をしてしまったこと……心からお詫びします。本当にすみませんでした」

 胸の奥が熱くなり、喉がひどく乾く。言葉が空回りしないよう必死に噛みしめながら伝えた。

「顔を、上げてもらえますか?」

 静かな声に、恐る恐る視線を上げる。田中さんは少し驚いたように眉を上げ、それから柔らかく微笑んでいた。

「言い訳にしかなりませんが……」

 僕は真っすぐにその表情を見つめ、続けた。

「あの時、僕は人との約束に気を取られていました。結果、田中さんのお言葉を聞き流した挙句、見当違いな返答をしてしまい……必要以上に傷つけてしまいました」

 田中さんは一拍置いて、ふっと小さく息をついた。

「そうなんですね……。では、今改めて同じ言葉をお伝えしたら、私は違う回答をいただけますか?」

 胸がぎゅっと締めつけられる。返事に迷ったのではない。どう言えば、この人をこれ以上傷つけずに済むのか――その答えを探して言葉が出なかったのだ。

「すみません、田中さんの気持ちに応えることはできません」
「……お付き合いされてる方がいるのですか?」
「いえ……」
「では、好きな方でもいらっしゃるのですか?」
「……………いえ、いません」

 そう答えると田中さんは少しだけ嬉しそうな顔をして「じゃあ、私にもまだチャンスはありますよね?」と期待を込めた瞳で見つめてきた。

 ​二の句が継げない。でもこのまま押し切られるわけにはいかない。それでは前回の二の舞だ。

「すみません。ありません」

 きっぱりと断った……はずだった。

「どうしてないと言い切れるんですか? 先のことはわかりませんよね?」
「それは、そうですが……いや、でも……!」
「何も最初から恋人としてお付き合いしてほしいなんて言いません。まずはお友達でどうですか?」
「無理です」
「どうしてですか?」
「田中さんは同僚であって、友達ではありません」
「小野さんとはお友達なのに?」
「……!? 小野は同僚です!」

 どうしよう、話が全く通じない。

「わかりました……じゃあ、同僚としてだったら仲良くしてくださるんですよね?」
「それは……まあ……」
「良かった! じゃあ同僚として朝の通勤をご一緒してもいいですか?」

 ぞくりと背筋が冷えた。

「ダメです!!!」

 思わず声が大きくなり、田中さんが驚いたように目を丸くする。

「すみません、大きな声を出してしまって……。でも朝は別の方と約束してるので無理です」
「お友達ですか? 私はその方と一緒でも構わないのですけど」
「……僕が嫌なんです。すみませんが、遠慮してください」

 冷や汗が背中を伝う。話が全く通じない。逃げ場がない。
 そこまで言ったところで予鈴が鳴った。救われた気持ちで、その場を切り上げた。



 席に戻ると同時に、小野が声をかけてきた。

「どうした? なんかやけに疲れ果ててないか?」
「ちょっとな……」

 さすがに事の顛末を話す元気がなかった。そのまま業務に追われ、田中さんとのやり取りは頭の片隅に追いやられていった。



 ――まさか、田中さんがあんなことをしていたなんて。
 このときの僕には、想像すらできなかった。