天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

 ***


 そのまま別れて会社へ向かう途中、偶然美咲先輩と出会った。

「ひーよーりっ!」
「あ、美咲先輩。おはようございます」
「おはよう〜。……ねえねえ、さっきのイケメン誰?」

 突然の直球に、思わず足が止まりそうになる。

 美咲先輩の沿線は、昨日まで私が使っていた遠回りの路線のはず。そう思って尋ねると、彼女は楽しそうに笑って答えた。

「昨日の事故でまだダイヤが乱れてるみたいでさ。だから今日はひよりと同じ路線で来てみたの。……で、それより! あのイケメンの話っ!」

 にやにやと顔を寄せてくる美咲先輩に、必死で誤魔化そうとした。けれど、視線を逸らしても、顔が熱くなっていくのは隠しようがない。

「ふ〜ん……なるほどね?」

 恋愛経験豊富な先輩の目からは、全部お見通しだった。

 ――結局、根掘り葉掘り問い詰められ、全てを白状させられることになった。



 話を聞き終えた美咲先輩は、ふっと真面目な顔になり、口を開いた。

「……奪っちゃえば?」

 唐突な一言に、思わず咳き込みそうになる。先輩はそんな私を落ち着かせるように、柔らかく視線を向けてきた。

「せ、先輩っ!?」
「まあ、奪えっていうのはちょっと言葉が強いけどさ。でも好きなんでしょ? だったら遠慮してても何も始まらないよ」
「始まらないって言われても……相手にはもう彼女がいるんですよ?」
「まあね。でもだからって簡単に諦められる?」
「それは……」

 反論しようとするけれど、言葉が詰まる。

「無理でしょ? それに聞いてる限りだと、ひよりから繋げようとしてるんじゃなくて、向こうから歩み寄ってきてる気がするんだけど。本当にその人、彼女いるの?」

 問われて、あの時の光景が頭をよぎる。思い出したくないのに、胸が締め付けられて涙が滲んできた。

「……それは……」

 声が震えたのを見て、美咲先輩は慌てて手を振った。

「あ〜ごめんごめん、泣かせるつもりじゃなかったんだよ。でもさ、本当に彼女がいるのなら、彼女持ちなのにひよりをキープしようとしてるってことになるでしょ?  でも今聞いた限りじゃ、その人はそんな不誠実なタイプには思えないんだよね。どう思う?」

 確かに。これまでの相原さんを思えば、そんな人には思えない。だけど――あの時「いいですよ」と答えていたのも事実だ。
 返す言葉を失って黙り込む私に、美咲先輩は優しい声をかけてきた。

「私は、好きなら頑張ってほしいと思うよ。でも今すぐ答えを出さなくていい。いつでも話なら聞くから」

 そう言って、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
 ……子供か、私は。いや、子供だな、やっぱり。


 ***


 会社帰り。相原さんとは約束をしていない。ゆっくり駅に向かっていると、突然女性から声をかけられた。

「すみません、ちょっとお話したいんですが……」

 振り向いた瞬間、胸の奥がざわついた。落ち着いた雰囲気のスーツ姿。けれど、その顔に見覚えがある。思い出した瞬間、心臓が嫌な音を立てた。

(この人……相原さんの彼女……)

 あの時、告白していた人。そして相原さんからOKの返事をもらっていた人。

 そんな人が一体何の用だろうか。訝しげな気持ちが顔に出ていたのだろうか。

「突然すみません。ミライテック株式会社の田中と言います。相原さんのことでお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

 よろしくない。全くもってよろしくない。正直断りたい気持ちでいっぱいだった。ここで背を向けてしまえば、どんなに楽だろう。

 でも――

「はい。大丈夫です」

 美咲先輩の言葉が蘇る。

『遠慮してたら何も始まらないよ』

 ……怖い。でも逃げない。私、立ち向かいます。