天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《ひよりside》
「また明日、朝の電車でお会いできませんか?」

 相原さんの言葉が、何度も何度も脳内で反響する。
 ベッドに横になっても、目を閉じても、あの時の嬉しそうな笑顔が浮かんでしまう。

 ――けれど。

 相原さんには恋人がいる。その現実が、胸をきゅっと締めつける。
 どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。どうして私と、何事もなかったように関係を続けようとしてくれるんだろう。

 答えの出ない問いを抱えたまま、私はなかなか眠りにつけなかった。



 落ち着かない気持ちを抱えたまま迎えた翌朝。鏡に映る顔は寝不足で、目の下に薄い影ができていた。気持ちまで沈んで見える自分に、思わずため息が漏れる。
 いつもより少しだけ早く家を出て、以前まで使用していた路線に乗り込んだ。

 車内は平日の朝らしく混雑していて、私はいつもの場所に立つ。相原さんが乗ってくる駅が近づくにつれ、胸の奥で心臓が激しく鼓動を打ち始めた。

(相原さんは本当に乗ってくるのかな? ううん、それよりも……恋人がいる人と、これまで通り楽しく通勤していいのかな。間違ってるって思うのに、それでも会いたい――)

 相反する気持ちを抱えながらも、電車は相原さんの乗ってくる駅に到着する。
 ドアが開いた瞬間、彼はまるで飛び乗るようにして駆け込んできた。少し息を乱し、緊張した面持ちで車内を見渡す。そして私を見つけた瞬間、安心したように表情が和らぐ。

「……おはようございます」
「お、おはようございます……」

 緊張してなかなか顔を見られずにいると、隣から「……良かった」と小さな声が聞こえた。

 その一言が、胸の奥深くまで響いてしまう。思わず顔を上げると、こちらを見ながら嬉しそうに微笑んでいる相原さんがいた。ドキッとして、私は慌てて視線を逸らした。

「……あのっ! 昨日話してましたが、ゲームを始めたって……」

 胸の鼓動を誤魔化すように、慌てて口を開いた。すると相原さんは、耳の後ろを掻きながら少し恥ずかしそうに答えてくれる。

「ああ、そうなんです。スマホゲームの方がいいのかなと思ったのですが、そのストラップのキャラは別のゲーム機らしいので……妹からゲーム機ごと借りてきてしまって」

 しばらく会わないうちに、乙女ゲームについて詳しくなっている相原さんに、私は思わず目を見開いた。ついこの間まで「乙女ゲーム」と言う単語すら知らなそうな雰囲気だったのに。

「? どうされましたか?」
「あ、いえっ……! なんだか相原さんが乙女ゲームに詳しくなってる気がして、驚いてしまって……」

 焦りながら言葉を返すと、ふいに彼は真面目な顔になり、真剣な声音で言い出した。

「あなたのことが知りたかったんです」

 一瞬、周囲のざわめきが遠のいた気がした。心臓を掴まれたかのような衝撃に息を呑む。

「え?」
「こんなことくらいで桐島さんのことを知れるわけではないとわかってはいたのですが、それでも……何かしてでも近づきたくて」

(そんなこと言わないでほしい……彼女がいるのに、そんなこと言わないで……)

 これまでなら胸をときめかせていたそのセリフも、今となっては甘さではなく痛みに近いものとして響いた。


 ​その後も、相原さんは楽しそうに会話を続けた。控えめながらも楽しそうに笑うその横顔が、かえって胸を痛ませる。私もつられて笑いながら、以前のような楽しかった気持ちを思い出しては、また苦しくなった。

(相原さんは彼女がいるのに、私とこんな風に仲良く話したりしてていいのかな……)

 楽しいはずの時間が、罪悪感と切なさに塗り替えられていく。

 電車を降り、改札で別れ際に「帰りも一緒に帰れますか?」と尋ねられ、心臓が一瞬止まりそうになった。

(必要以上に親しくしてはいけないよね……)

「ちょっと最近忙しくて……何時になるか分からないので、すみません……」

 精一杯の嘘を口にした。声がかすかに震えて、自分でも苦しい嘘だとわかっていた。

「そうですか……。朝はご一緒できますよね?」

 そう聞かれては、もう頷くしかない。

「……はい」

 答えると、相原さんはほっとしたように口元を緩ませた。その笑顔が、また私の胸を締めつけた。