天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《ひよりside》
 翌日から私はいつもの通勤電車に乗るのをやめた。四ツ谷駅で降りていたのを、信濃町駅に切り替えることにした。本当なら四ツ谷で降りれば五分で会社に着く。それでも、これからは信濃町から歩く。わざと遠回りして。
 そうすれば、相原さんに会うことはないだろうから。

 別に、相原さんが私に何かしたわけじゃない。私が何かしたわけでもない。それはちゃんとわかっている。わかっているのに、どうしても彼の顔を見たくなかった。

 考えないようにと、仕事には無心で取り組んだ。そのせいか上司に「桐島、最近集中してるじゃないか。すごくいいぞ」と褒められた。でも胸の中はちっとも晴れなかった。

「最近元気がないけど、何かあったの?」

 休憩中に美咲先輩に声をかけられた。さすが鋭い先輩。私がいつもと違うことに、すぐ気づいてしまったらしい。

「なんでもないですよ」

 愛想笑いで誤魔化す。けれど美咲先輩は、疑うような眼差しで私を見つめていた。
 ごめんなさい、先輩。本当は相談したい。でもいまはまだ、その勇気が出せないんです。


 ***


 仕事を終えても、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
 一人になりたくなくて、駅前のアニメイトに足を踏み入れる。いつもなら店内にいるだけでわくわくして楽しくなるのに、今日はまったくそんな気分になれなかった。

 あてもなく店内を歩き回る。前から気になっていたゲームソフトが目に入り、思わず手に取ってしまう。

『恋を知らない君へ』

 そのタイトルを見た瞬間、相原さんの顔が勝手に浮かんだ。
 私のゲームの話を、黙って聞きながらも興味を示してくれたあの時のこと。彼の表情は本当に嬉しそうで、私も胸がいっぱいになった。

 ――なのに、今は胸が苦しくて、痛くて、どうしていいかわからない。
 ゲームソフトを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

「大丈夫ですか……?」

 すぐ隣から声がして、反射的に顔を向ける。見知らぬ女性だった。

「え……?」
「いえ、泣いてるので……」

 そう言われて頬に手を当てると、そこは濡れていて温かかった。 いつのまにか涙がこぼれていたらしい。

「すみません、大丈夫です。ありがとうございます……」

 恥ずかしさに耐えきれず、慌ててゲームソフトを棚に戻して外に出た。
 ゲームソフトを手に取って泣いている女なんて奇妙に違いない。そう思っても、涙は止まらなかった。

 そのタイミングで、ポケットに入れていたスマホが鳴った。
 ビクッとなる。相原さんだったら、どうしよう……。
 恐る恐る画面を見ると、そこに表示されていたのはオタ友のユキの名前だった。少しだけ胸をなでおろす。

「ひより! 大変! 今ひよりの好きキャラのグッズが――」

 ユキは興奮した声でまくし立てていたが、私の返事がないことに気づいて途中で言葉を止めた。

「……ひより? もしかして、泣いてる?」

 その優しい声が、私の涙腺を一気に崩壊させた。

「……うっ……うわあああああっ!」

 駅前なのに、周りの目なんて気にしていられなかった。ただスマホを握りしめ、声をあげて泣き続ける。

 もうこれまでみたいに相原さんに会えない。あんなに楽しく話すことも、きっともうできない。……もう、できないんだ。

「ひより? どうしたの? 今どこ?」

 心配そうなユキの声が、さらに涙をあふれさせる。

「うぐっ……う、ううぅ……っ」

 嗚咽でうまく言葉にならないまま、私はスマホを強く握りしめていた。


 ***


 何も言えずに泣いていると、「ひより!」と呼ぶ声がして顔を上げた。そこには、息を切らして駆けつけてきたユキが立っていた。

「……大丈夫? ここじゃ人目もあるし、落ち着けるとこ行こ」

 ユキが来てくれた安心感で、胸の奥がまた熱くなりかけた。でも「人目があるから」という言葉に、はっと我に返る。私は慌てて涙を堪えた。

 ユキは何も言わずに私の手を取ると、迷いなく歩き出した。引かれるままについていくと、新宿駅ビル内の個室カフェにたどり着いた。

「で? なんで泣いてたの?」

 ユキはまどろっこしいのが嫌いだ。ストレートな問いに、思わず怯んでしまう。

「えっと……」
「ここまできて『なんでもない』は通らないよね?」

 押し切られるように、私は観念してこれまでの経緯を話した。ユキは真剣な表情で黙って聞いてくれる。そして私が話し終えると、しみじみとこう言った。

「なるほど……そんなに泣いちゃうくらい、その相原さんって人のことが好きなんだね」

 ぽかんとしてしまう。

「え?」

「好きだったんでしょ? だからショックで、胸が痛くて、泣いちゃったんでしょ?」

 ――好き。
 ユキに言われて、初めて気づいた。相原さんから連絡が来ないと不安で、会えないと寂しくて。電車の中で笑ってくれると、ただそれだけで嬉しくて。

 ――私、相原さんのことが、いつの間にか好きになってたんだ。

 その瞬間、失恋も同時に突きつけられたようで、また涙が溢れる。ユキはそっと頭を撫でてくれた。

「今、初めて気づいたの? 自分が彼のこと好きだったことに」

 私は声にならず、ただ頷いた。

「ひより、諦めないで。勘違いかもしれないし、直接聞いてみなよ」

 背中を押されても、勇気はなかなか出ない。
 会っちゃいけないのに、会いたい。矛盾する気持ちに、胸が苦しくてどうしようもなかった。