天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《真一side》
 小野に言われて、はっとした。

「なんか今日、浮かれてねーか?」

 気のせいだ、と軽く返したものの、自分でも気づかないうちに顔が緩んでいたのかもしれない。
 今日は仕事帰りに桐島さんと一緒に帰れる。そのうえ、彼女の“好きなもの”について、少しだけ踏み込んで話ができる――そう思うと、どこか浮き足立っていたのだろう。

 気を引き締めていつも通りに仕事をこなす。いや、周囲から見れば「いつも以上」だったかもしれない。それでも手を抜いたつもりはなかった。

「お先に失礼します」

 時間ぴったりに会社を出る。今日は桐島さんを待たせずに済みそうだ。そう思いながら駅に向かっていると、角を曲がったところで、不意に背後から声をかけられた。

「あの、相原さん。急いでるところすみません。少しだけ、お時間いいですか?」

 振り返ると、そこにいたのは見覚えのある女性社員だった。確か、総務にいたような……名前までは思い出せないが、社内では何度か見かけたことがある。

「なんでしょうか?」
「あの……」

 もじもじと視線を揺らす彼女に導かれるように、道の脇にある人目を避けられる場所まで移動する。早く駅に向かいたいのだが、そう急かすわけにもいかない。

 女性が小さな声で何かを言ったような気がしたが、焦っていたせいか、肝心の言葉が耳に入ってこなかった。

「すみません、もう一度――」

 聞き返そうとしたその瞬間。

「付き合ってくれませんか?」

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

(付き合う? 何かの付き添いか?)

 仕事で関係するどこかに行ってほしい、ということだろうか。自分にできるかどうかはわからないけれど、困っている様子だったし、断る理由もない。

「ええ、いいですよ」

 その瞬間、女性は信じられないほど嬉しそうに目を見開き、わずかに飛び跳ねるような動作をした。そして――

 カタリ、と後方で何かが倒れるような音がした。猫でもいたのだろうか?

 気のせいかもしれないと思い直し、目の前の女性に改めて尋ねる。

「それで、僕はいつどこに付き合えばいいのでしょうか?」
「……え?」

 なぜか、女性の顔が一気に曇る。困惑というより、失望にも似た表情だった。

「? 僕はどこかにご一緒すればいいんですよね? 場所は――」

 重ねて尋ねると、彼女は悲しげに目を伏せた。

「……いえ、やっぱり結構です」

 それだけ言って、踵を返し、立ち去っていった。

 ……一体なんだったのだろう。少なくとも、仕事の依頼ではなかったようだ。考えても分からない。今は桐島さんのもとへ向かわなければ。

 足早に駅へと向かうと、すでに彼女は駅前に立っていた。昨日に引き続き、またも待たせてしまったらしい。申し訳なさが込み上げる。

「お待たせしました」

 そう声をかけると、彼女はうつむいたまま、小さく「いえ……」と返しただけで、こちらを見ようとしなかった。

 ……怒っているのだろうか。二日連続で、時間に遅れてしまった。以前、妹に「女性を待たせるなんて最低!」と叱られたことを思い出す。

 謝ろうとしたその瞬間、彼女のほうから言葉が飛び出した。

「……体調が悪くて、今日は帰らせてもらってもいいですか?」

 顔は赤く、どこか力のない声だった。確かに、彼女は普段から頬を紅潮させていることが多い。もしかしたら、本当に熱があるのかもしれない。

「大丈夫ですか? ご迷惑でなければ、ご自宅までお送りいたしますよ?」

 申し出たが、彼女はすぐに「友達が迎えに来てくれるので」と断った。

 しつこくしても仕方ない。そう思い、その場で別れた。

 ……帰り道、彼女のことが頭から離れなかった。スマートフォンさえあれば、あとで様子をうかがうこともできたのに。修理中で連絡が取れないことが、これほど悔やまれるとは思わなかった。

 明日には、元気になっているだろうか。また笑顔で会えるだろうか。そう願いながら、布団に入った。



 だが、その日を境に──
 彼女が、いつもの電車に乗ってくることはなくなった。