天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない

《ひよりside》
 午前中の会議が終わって、私はようやく一息ついて自席に戻った。ぼんやりとパソコン画面を見つめながら、ふと今朝のことを思い出す。

 あのときの相原さんの笑顔。
「楽しみにしてます」って言ってくれた、穏やかでまっすぐな声。

 ……思い出すたび、顔がゆるむ。頬が勝手に緩んでしまって、自分でもニヤけてるのがわかる。ダメだ、仕事中なのに。

「ひより、顔に出すぎ~」

 不意にかけられた声に心臓が跳ねた。
 振り返ると美咲(みさき)先輩がコーヒーを片手にニヤニヤしていた。女子力高めで恋バナ大好きな先輩。仲良くしてくれて好きな先輩だけど、ちょっと今は勘弁してほしい。

「な、なにがですか?」
「んー? なんでもないような顔して、絶対なんかあったでしょ?」
「なにもないです!」
「ふーん?」

 からかいの手を緩めてくれそうになくて、私はそそくさと資料に目を落とす。真っ赤になった顔をごまかすように仕事に没頭した。早く終わらせよう。今日の夕方にはまた、相原さんに会えるんだから。


 ***


 午後もバタバタして、ようやく定時を迎えたころには自然と背筋が伸びた。今日は予定通りに退勤できたし、待ち合わせにちょうどいい時間。少し急ぎ足で駅に向かう。

 ――また相原さんに会える。そう思うだけで、足取りが軽くなる。

 駅前の歩道を抜け、角を曲がろうとしたときだった。ふと視線の先に見覚えのある後ろ姿が映った。

 ……え?

 え、え……?

 相原さん?

 こんなところで会うなんて――いや、でも、いつもはこの辺りに来る用事なんてないって言ってたような……。

 それでも嬉しい。せっかくなら声をかけたい。名前を呼ぶには少し距離があったから、私は小走りでそっと近づいた。

 そのとき。
 彼が一人じゃないことに、初めて気がついた。すぐ隣に女性がいた。清楚な感じのきれいな人。私よりもずっと大人っぽくて、落ち着きのある笑みを浮かべていた。
 二人の距離は近くて――その親しさが何を示すのか、すぐに分かってしまった。

 これってもしかして、告白……?
 私、見ちゃいけないんじゃ……でも今さら立ち去れない。足が地面に縫い留められたみたいに動かない。

「……好きです。ずっと、相原さんのことが好きでした」

 女性の声はかすかに震えていた。でも、懸命に伝えようとしているのがわかる。

「私と付き合ってくれませんか……!」

 まっすぐな告白だった。
 私なら、あんなふうに言えない。きっとずっと躊躇して、こんな風に勇気を出せないまま――。

 ……でも。でも、お願い。断って……!

 どうしてそんなこと願ってるのか、自分でもわからない。けど、止まらない。心臓が痛くなるくらい強く、必死に。
 気づけば祈るように組んでいた手に爪がくい込んでいた。胸の奥がじくじくと痛む。返事が怖くて、顔を上げられない。

 ほんの一拍の沈黙。その短いはずの間が、永遠のように長く感じられた。鼓動の音だけがやけに大きく響く。息を吸うことすらためらわれる。

「――ええ、いいですよ」

 あまりにあっさりとした響きに、耳が自分を裏切ったのかと思った。何の迷いもない、静かな声。

 ……うそ。

 胸の奥が、ぎゅうっと苦しくなる。声が出ない。呼吸の仕方すら忘れそうになる。

 ……あんなに、あっさりOKするんだ。

 胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる音がした。中身を抜かれたみたいに、身体が軽くなっていく。

 相原さん、彼女、できたんだ。
 じゃあ私は、なんだったんだろう。

 私は今、目の前で起こった出来事が、現実のものだと受け入れることができなかった。


 ***


 どんな顔して歩いたのか、どんな経路を通ったのか、まるで記憶にないまま駅に着いた。人混みにまぎれるようにして柱の陰に立つ。

 携帯を取り出して彼の番号を見る。……そうだ、今は代替機で、LINEも通じないんだった。会わずに帰ってしまおうかとも思ったけれど、それは逃げるみたいでなんとなく悔しかった。

 しばらくして彼の姿が見えた。

「お待たせしました」
「……いえ」

 さっきの女性のことを聞いていいはずがなかった。聞く権利なんて、私にはない。

「……あの、今日、ちょっと体調が悪くて。ゲームの話はまた今度でもいいですか?」

 完全なウソ。でも彼はそれを疑う様子も見せなかった。

「大丈夫ですか? ご迷惑でなければ、ご自宅までお送りいたしますよ?」

 優しい声だった。優しすぎて、つらかった。

「いえ、あの……この後、友達が心配して来てくれるみたいなので。今日はここで……」
「では、お友達が来るまでご一緒に――」
「いえっ! 本当に大丈夫なので」

 精一杯の笑顔を貼りつけ、足を前に出した。
 背中に彼の視線が追いかけてくる気がしたけれど、振り返らずに歩き続けた。

 ――自宅へは、どうしても帰る気になれなかった。

 ただ少しでも遠ざかりたくて、私はひと駅分ひたすらに歩いた。知らない道を選んで、泣きながら。

 人が多い駅前で泣くなんてみっともない。そう思えば思うほど、涙はあふれて止まらなかった。