明日から、付き合って初めて迎える週末のお休み。
先輩と恋人になって初めての週末なのに、一緒にいられるかな……。
仕事の合間にも、ついついそんなことばかり考えてしまう。
付き合い始めてからというもの、職場での先輩は相変わらず仕事で忙しそうにしていて、真剣な表情を一切崩さない。
廊下ですれ違うこともあったけど、
「先輩、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
という、これまでと変わらない挨拶を交わすだけ。
私たちの関係は会社では秘密にすると決めた。
だから、誰かに見られているかもしれない場所で恋人らしく振る舞うわけにはいかない。
それに私自身もまだ、先輩とどう接すればいいのか分かっていなかった。
「先輩」と呼ぶのは今まで通りなのに、その人はもう、ただの先輩ではない。
そう考えるだけで、目が合った時にどうすればいいのか分からなくなってしまう。
むしろ付き合い始めた今の方が、以前よりも距離を意識してしまっているほど。
この数日、私の業務は落ち着いていたけれど、先輩は連日のように忙しそうだったことも大きかった。とても日中にゆっくり話せるような雰囲気ではない。
でもそれなら、夜に電話すればいい。
そうは思うものの、先輩が何時まで会社に残っているのか私には分からなくて…
もう帰宅しているかもしれないし、まだ仕事をしているかもしれない。移動中かもしれないし、ようやく帰って休んでいるところかもしれない。
一度気にし始めると、どの時間にかけても迷惑になりそうな気がして、結局私から電話をかけることはできず…
メッセージくらいならと、そろそろ仕事が終わったかなと思う時間に『先輩お疲れ様です、お仕事終わりました?』と送ってみると、返ってきたのは『すまない、まだ仕事中』という一言だけ。
そんな感じで、週末の予定を切り出すタイミングを見いだせないまま迎えた金曜日だった。
(明日からの休み、先輩はゆっくり休みたいよね……私なんかと一緒に過ごす余裕、ないのかな……)
そんなことを考えていたとき、机の上に伏せて置いていたスマートフォンが短く震えた。
ちらりと画面に目をやると、表示された名前に一瞬で胸の奥が跳ねる。
先輩からだった。
『今日、仕事が終わったら部屋に行ってもいいか?』
たったそれだけの文章に、飛び上がりたいくらい嬉しくなる。
部署が違う先輩のデスクはフロアの向こう側。
少し目線を上げて遠目に様子を窺うと、先輩はいつも通りの真剣な横顔をしていた。
そう、ここは職場だ。
私は周りに気づかれないように表情を引き締め、サッとスマートフォンを手に取ると、短い返信を素早く打ち込んだ。
『もちろんです!』
送信して、すぐにまたスマートフォンを伏せる。
少し考えてから、やっぱりもう少し何か言いたくて、周りの目を盗んでもう一度だけ素早くメッセージを送った。
『わぁ、嬉しい!』
送信した直後、今度は少しだけ恥ずかしくなった。
素直すぎたかもしれない。
けれど、そんな私の気持ちなど知るはずもない先輩から、すぐに続きのメッセージが届く。
『ちょっと遅くなるかもだけど…』
私はほとんど反射的に返信した。
『全然大丈夫です!私は定時で上がれそうなんで、料理作って待ってます!』
送信してから、今度は別の意味で緊張し始めた。
……料理。
自分で言ってしまったけれど、大丈夫だろうか。
普段から自炊もしているし、一人で食べる分にはそれなりに作れる。
でも、好きな人に食べてもらう料理となると話は別だ。
あまり気合いを入れすぎるとかえって恥ずかしい気もするし、かといっていつもの適当な料理というのも寂しい。
そんなことを考えているうちに、先輩から返信が届いた。
『本当か…りんりんの手料理、楽しみにしてる』
その一文を見た瞬間、私は思わずスマートフォンを胸元に抱えた。
……もう。そんなふうに言われたら、頑張るしかないじゃないですか。
先輩が私の作った料理を食べて、「美味しい」って言ってくれて。
そのあと、二人でゆっくり過ごして……。
そこまで考えたところで、私ははっと我に返った。
……って、ここ会社!
慌てて顔を上げる。幸い、近くの席にいる同僚たちは、それぞれ自分の仕事に集中しているようだった。
よかった……。
私は小さく息を吐き、何事もなかったようにパソコンの画面へ視線を戻した。
今は仕事中です。ちゃんと仕事をしないと!
そう思ったはずなのに。
午後からの私は、仕事の合間に夕食の献立ばかり考えてしまっていた。
あれ、でもちょっと待って。よく考えたら私、先輩の好きな食べ物ってちゃんと知らないかも。
あの日、居酒屋で一緒に食事はしたけど、あのときは私も必死で何を食べたかなんて正直あまり覚えていない。
たしか……唐揚げとか、だし巻き卵とか。あとは、ポテトフライ……?
思い出せるのは、そんな定番の居酒屋メニューばかり。
でも、逆に考えれば、変わったものを頼んでいた記憶がないということは、そういう定番の料理が嫌いなわけではないのかもしれない。
うん。変に冒険するより、まずは定番。
そこに、私なりのアレンジを加えてみよう。
そう決めると、献立が少しずつ形になっていった。
先輩が好きかどうかは分からない。でも、きっと美味しいと思ってもらえるように。
---
定時を少し過ぎたところで、私は会社を出た。
先輩はやはりまだ仕事が終わらないようで、もう少しかかるということだった。
帰り道のスーパーに立ち寄り、頭の中で考えていた献立に必要な食材を買い揃えて、足早に家へ帰った。
家に着くとすぐに手を洗い、買ってきた食材をキッチンに並べていく。
これはメインの料理に、これは副菜。
早速料理をしようと冷蔵庫に開けたその時。
「あ……」
私は小さく声を漏らした。
お酒がちょうど切れていたのに、買うのを完全に忘れていた。
先輩が買ってきてくれるかもしれないけれど、もし先輩も忘れていたら、せっかくの金曜日の夜なのに乾杯するものがない。
今からもう一度買いに出るか迷っていたちょうどその時、スマートフォンが震えた。
『21時くらいに着きそう。何かいるものある?』
タイミングが良すぎて、私は思わず笑ってしまった。
『すみません、お酒がなかったのでお酒だけお願いしますっ!』
そう送ると、すぐに『了解』と返ってくる。
たったそれだけのやり取りなのに、なんだか嬉しかった。
一緒に暮らしているわけでもないのに、夕食の買い物をして、足りないものを相手に頼んで、もうすぐその人が自分の部屋へ来る。それだけで、今までの生活が少しずつ変わっていくような気がした。
エプロンを身につけ、野菜を切り、下味をつけ、鍋に火をかける。
やるべきことが決まっていると、さっきまでの緊張も少しずつ落ち着いていった。料理をしている間は、余計なことを考えずに済む。
……そう思っていたのに。
「……美味しいって言ってくれるかな」
気づけば、独り言が漏れていた。私は慌てて首を振る。
だめだめ。期待しすぎちゃだめ。そう言いながらも、口元は自然と緩んでいた。
---
料理の下準備をある程度終えたところで、時計を確認する。まだ少し時間がある。
先輩が来てからだと、きっと落ち着いて入っていられない気がした。
(時間的に考えると、先輩泊まってくよね…?)
先輩がいる中でお風呂に入るのは、まだ少し恥ずかしい。
そう思った私は、先にサッとお風呂に入ることにした。
いつもより早めにお風呂から上がり、スキンケアをして部屋着に着替えて鏡の前に立つ。
「……ちょっとだけ」
パウダーを軽くのせて、眉を描き足し、リップをひと塗り。
家なのに、こんなことしなくてもいいのかもしれない。
それでも、今日は付き合って初めて先輩を迎える夜だから。
少しでも「可愛い」と思ってもらえたら嬉しい。
鏡に映る自分を改めてチェックする。
フルメイクじゃないし部屋着だし、髪もまだ少し湿っているけど……
まあ、家なんだから、これでいいよね。
付き合う前だったら、こんな姿を先輩に見られるのは恥ずかしくて仕方なかったと思う。
でも、今は恋人なのだから。
「……恋人」
その言葉を頭の中で繰り返しただけで、急に顔が熱くなった。
両手で頬を押さえる。
だめだ。まだ全然、慣れない。
そのときだった。
玄関のチャイムが鳴り、私は思わず肩を跳ねさせた。
時計を見ると、21時を少し過ぎたところだった。
「き、来た……!」
急いで玄関へ向かい、ドアノブに手をかける。
けれど、そこで一瞬だけ手が止まった。
……どうしよう。
ただドアを開けるだけなのに、急に緊張してきた。
私は一度だけ深呼吸をしてから、ゆっくりとドアを開いた。
「遅くまでお疲れ様です、先輩!」
できるだけいつも通りに明るく笑ったつもりだった。
けれど、先輩は少し驚いた様子ですぐには返事をしなかった。
「……先輩?」
「あ、いや」
先輩は、なぜか少しだけ視線を逸らした。
「どうしました?」
「……その」
「はい?」
「風呂上がりか?」
「あ、はい。先に入っちゃいました」
「そうか……」
先輩は、また視線を逸らした。
……あれ?
私は首を傾げる。
「先輩、顔赤くないですか?」
「赤くない」
「赤いですよ?」
「……急いで来たからだ」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
「とりあえず、入ってくださいっ」
「お邪魔します」
先輩が部屋に入る。
その手には、頼んでいたお酒の入ったコンビニ袋があった。
「あっお酒、ありがとうございます! 受け取りますね」
「ああ、ありがとう」
袋を受け取って中を覗き込むと、缶ビールの横に、男性用の下着が入った小さなパッケージが見えた。
……あ。
やっぱり、今日泊まっていくんだ。
さっきからなんとなく考えていたことが、ようやく確信に変わった。
当たり前のことなのに急に顔が熱くなって、私は見なかったふりをして視線を上げた。
「……いや。こちらこそ、料理を作ってくれるんだろ?」
「はいっ!」
誤魔化すように元気よく頷くと、先輩は部屋の奥に並べられた食材や調理途中の料理に目を向けた。
「……本当に作ってくれたのか?」
「もちろんです!」
「……俺は幸せ者だ……」
「ふふっ。先輩、大げさですよっ」
私は笑いながら答えた。
それから、少しだけ迷って口を開く。
「ご飯、すぐできるんですけど……先輩、どうしますか?」
「どうする?」
「えっと……お風呂、先に入りますか?」
聞いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
自分からそんなことを聞くなんて、まるで先輩が泊まることを当然のように思っているみたいだった。
けれど、先輩は少しも気にした様子を見せずに答えた。
「……そうだな。急いで来たから、少し汗をかいた。借りてもいいか?」
「あ、はい! じゃあ、どうぞ。タオル、出しますね」
私は先輩にタオルを渡した。
それから「あ、ちょっと待ってくださいっ」と言いながら、クローゼットから厚手のスウェット上下を取り出す。
「これ、よかったら着てください。大きめサイズなので、たぶん先輩も着られると思うんですけど……」
「……ありがとう」
先輩はスウェットをちらりと見て、少しだけ口元を緩めた。
スウェットを渡した指先がほんの少し触れ合う。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が小さく跳ねた。
……キスだってしたのに。なんでこんな些細なことで、こんなにドキドキしちゃってるんだろう。我ながら、どうかしてる。
---
先輩がお風呂に入っている間、私は最後の仕上げに取りかかった。
料理を温め直し、盛り付けを整える。
先輩が出てくる頃にちょうど完成するように、最後の料理を仕上げていく。
そうして、ちょうど料理をテーブルに並べ終えた頃。
「りんりん」
お風呂場の方から、先輩の声が聞こえた。
「はいっ!」
「もう出ていいか?」
「はい、どうぞー!」
しばらくして、髪をタオルで拭きながら先輩が戻ってきた。
私のスウェットを着た先輩を見た瞬間、思わず視線が釘付けになる。
大きめサイズのはずなのに、先輩が着るとちょうどいい。
というか……なんだろう、この感じ。
自分の部屋着を着ている先輩が、思っていた以上に……違和感がなかった。
(……だめだ。なんかすごくドキドキする)
先輩は、
「スウェットちょうど良かったよ、ありがとう」
と言いながらテーブルの上に並んだ料理を見て、ぴたりと足を止めた。
「……りんりん」
「は、はい?」
「……これ、全部作ったのか?」
「はいっ。けっこう頑張りました!」
先輩はしばらく料理を見つめていた。
それから、ふと思い出したように口を開く。
「……そういえば」
「はい?」
「このスウェット……りんりんのいい匂いがする」
「……っ、もー! 何言ってるんですか先輩!」
思わず顔を手で覆う私に、先輩は、
「事実……を言っただけだが」
と真顔で返した。
その表情がまた先輩らしくて、恥ずかしいのに笑えてきて、私は先輩の腕を軽く叩いた。
「そういうこと、さらっと言わないでください!」
「……なぜ?」
「なぜって……! も、もういいです。ご飯にしましょ!」
私は誤魔化すように席に着いた。
でも、耳の先まで熱くなっているのは、絶対に気づかれていると思う。
「じゃあ、乾杯しましょ!」
私は早く軽く酔いたくて、ビールを注いだグラスを持ち上げる。
「お疲れ様です!」
「お疲れ様」
グラスが軽く触れ合った。
そして、私は先輩が料理に箸を伸ばすのを、何気ないふりをしながら見つめていた。
……どうかな。
美味しいかな。
先輩の口に合うかな。
できるだけ普通の顔をしているつもりだったけれど、内心はまったく落ち着いていなかった。
先輩が料理を一口食べる。
その瞬間、私は思わず身を乗り出しそうになった。
「……美味しい」
「ほんとっ?」
自分でも驚くくらい、素早く反応していた。
「うん。美味しい」
「よかったー!」
心の底から安心して、私は大きく息を吐いた。
「先輩の口に合うか、ちょっと心配だったんですよ」
「心配する必要ないだろ」
「でも、好きな人に食べてもらうのは初めてなので」
言ってから、私はしまったと思った。
先輩の動きが止まる。
私も固まった。
……今のは。
言わなくてもよかったのでは?
「……りんりん」
「は、はい?」
「今のは……」
「わ、忘れてください!」
「いや、忘れない」
「忘れてくださいっ!」
「無理だ」
先輩が、少しだけ笑った。
その表情を見ていると、私もつられて笑ってしまう。
「……先輩、ずるいです」
「何が?」
「そうやって、すぐ嬉しそうな顔するところです」
「嬉しいからな」
その一言に、私はまた何も言えなくなった。
先輩は料理を食べ、ビールを飲み、そしてまた料理に箸を伸ばしていく。
その様子を見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「俺は……幸せ者だな」
先輩が、ぽつりと呟く。
「もー、先輩、それ二回目ですよ?」
「そうか?」
「はいっ」
私は笑った。
それから少しだけ考えて、先輩の方を見る。
「でも……私も幸せです」
先輩がこちらを見た。
「……そうか」
「はい」
恥ずかしかったけれど、ちゃんと伝えたかった。
「先輩とこうやって一緒にご飯を食べられるの、嬉しいです。付き合う前は、こんな日が来るなんて思ってなかったので」
先輩は、しばらく黙っていた。そして、
「俺もだ」
と、短く答えた。
その声には、先輩の気持ちがちゃんと込められているように感じた。
私は少しだけ笑う。
「先輩、昔は私のこと、完全に後輩としてしか見てなかったじゃないですか」
「……」
「やっぱり、そうですよね?」
「いや」
先輩はグラスを置き、少し考えるように視線を落とした。
「最初から、後輩としてだけ見ていたわけじゃない」
「……え?」
「ただ、自分で認めていなかった」
私は箸を持ったまま、固まった。
「それって……」
「今は、もう認めている」
先輩は、真面目な顔で私を見る。
「りんりんが好きだ」
……何度聞いても、慣れない。
「先輩」
「なんだ?」
「ご飯中にそういうこと言うの、反則です」
「なぜ?」
「顔が熱くなって、ご飯が食べられなくなるので」
「……それは困るな」
先輩が少しだけ笑う。
「せっかく作ってくれたのに」
「もうっ!」
私は笑いながら、先輩の肩を軽く叩いた。
付き合い始めたばかりの私たちの食卓には、まだ少しだけぎこちなさがあった。
でも、そのぎこちなささえも、今は嬉しかった。
---
食事を終えると、私は食器を片付けようと立ち上がった。
「じゃあ、洗い物しますねっ」
「あ、りんりん」
先輩も立ち上がる。
「洗い物は俺がやるから。ゆっくりしてて」
「えっ? そんな、先輩に後片付けなんてさせられないです」
「今は先輩後輩じゃない」
先輩は、食器を手に取りながら言った。
「対等な恋人同士だろ?」
その言葉に、また胸が跳ねる。
……恋人。
何度聞いても、まだその響きに慣れない。
「それに、俺は洗い物が好きなんだ」
「えっ?」
私は思わず聞き返した。
「洗い物が好き?」
「ああ」
「……先輩、テキトーなこと言ってないですか?」
「テキトーじゃない」
先輩はいたって真面目な顔をしていた。
「なんというか、洗い物って瞑想みたいで好きなんだ」
「……」
私はしばらく黙った。そして、
「ぷっ……」
耐えきれずに吹き出してしまった。
「あはははは! 出た! 先輩の謎発言!」
「ふざけているわけじゃないぞ」
「洗い物が瞑想って……!」
「いや、本当に」
先輩は少し困ったように眉を寄せた。
「あの……なんというか、無心でできる作業が好きなんだよな」
「ほえー……」
私は少し考えた。
「……確かに、分からなくもないです」
「だろ?」
「でも、私は洗い物をしていると、だいたい『面倒だなー』って思います」
「そうか」
「先輩は洗い物をしながら、何を考えてるんですか?」
「何も考えていない」
「それが瞑想?」
「ああ」
「じゃあ、今も何も考えてないんですか?」
何気なく尋ねた。
けれど、先輩の手が一瞬だけ止まった。
「……今は考えている」
「何をですか?」
先輩は、少しだけこちらを見た。
「今日、りんりんの部屋に来られてよかったな、と」
さっきまで笑っていたのに、急に、胸の奥が静かになった。
「……先輩」
「なんだ?」
「それは……ずるいです」
「またか?」
「はい」
私は笑いながら、先輩の隣に立った。
「私も手伝います」
「いい。俺がやる」
「でも」
「りんりんはゆっくりしていろ」
「恋人なのに?」
口にしてから、急に恥ずかしくなった。
先輩も一瞬、黙る。
けれど、やがて小さく息を吐いた。
「……じゃあ、一緒にやるか」
「はいっ」
私は先輩の隣に立った。
先輩が食器を洗い、私が受け取って水気を拭く。
たったそれだけの作業なのに、なぜか楽しかった。
「先輩」
「ん?」
「こういうの、いいですね」
「何が?」
「一緒にご飯を食べて。一緒に片付けをして」
私は、濡れた皿を拭きながら、少しだけ笑った。
「なんか……普通の恋人っぽいです」
先輩の手が止まった。
「普通の恋人?」
「はい」
私は少し考えてから続ける。
「普通に一緒にご飯を食べて、普通に話して、普通に笑って。そういうのが、なんか嬉しいです」
先輩はしばらく黙っていた。それから、
「俺も」
と、静かに言った。
「こういう時間が、好きだ」
その声は、いつもの先輩よりも少しだけ柔らかかった。
私は隣に立つ先輩を見る。
仕事中の先輩とも、会議中の先輩とも違う。
今、私の部屋で。
私が作った料理の食器を洗っている。
その姿を見ていると、改めて思った。
本当に、この人と付き合っているんだ。
私は、先輩の恋人なんだ。
その事実が、少しずつ、ゆっくりと自分の中に染み込んでいく。
---
洗い物が終わり、先輩が手を拭いた。
「終わったな」
「はいっ」
私はテーブルの上を片付ける。
食事も終わった。
片付けも終わった。
ふと時計を見ると、まだ夜は終わっていなかった。
そのことに気づいた瞬間、私は急に意識してしまった。
……このあと、どうするんだろう。
振り返ると、先輩がキッチンの前で少しだけ所在なさげに立っていた。
「……先輩? どうしたんですか?」
「いや……」
先輩は少しだけ視線を泳がせた。
「人の部屋でどうくつろげばいいのか、勝手が分からなくてな」
その不器用すぎる正直な言葉に、私は思わずくすっと笑ってしまった。
「もー。普通にリラックスして座っててくださいよ」
「ああ……」
「あ! せっかくだし、買ってもらったお酒の残り、もう少し飲みませんか?」
「そうだな」
私たちはグラスを持って、今度はテーブル越しではなく、窓際にあるソファに並んで座った。
腰を下ろした瞬間、ふと数日前の夜の記憶が蘇る。
あの日、先輩はコートを着たままこのソファに座り、震えるような低い声で「ずっと好きだった」と告白してくれたのだ。
あの時はまだ、私たちの間には「上司と部下」という薄氷のような壁があって、触れ合うことすらためらわれた。
でも、今は違う。
私たちは「恋人」として、同じソファに並んで座っている。
あの夜、告白のあとに抱き合って、キスもして、その後朝まで一緒に過ごしたのに。
それなのに、どうしてただ隣に座っているだけで、こんなにドキドキしてしまうんだろう。
その事実を改めて噛み締めると、胸の奥がきゅっと熱くなった。
ちらりと隣を見ると、先輩も少しだけ落ち着かない様子でグラスの縁をなぞっている。
もしかしたら、先輩もあの夜のことを思い出しているのかもしれない。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
その沈黙に耐えきれなくなったのか、先輩がふいに口を開いた。
「……りんりん」
「はい?」
「平日は……あまり連絡できなくて、すまなかった」
思いがけない言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
「え?」
「仕事が立て込んでいてな」
先輩はグラスを見つめながら続ける。
「帰ってからも、メッセージを返すだけで精一杯だった」
「あ……」
私は、先輩との短いやり取りを思い出した。
一言二言で終わってしまう、ここ数日のメッセージ。
「いえ、そんな……先輩が謝ることじゃないですよ」
「でも、付き合い始めたばかりなのに、ろくに連絡もできなかっただろ」
「……」
「本当は、もっと話したかった」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
「電話も……しようとは思っていた」
「えっ?」
「何度かスマートフォンを手に取った」
先輩は少しだけ困ったように眉を寄せる。
「だが、もう遅い時間だったし、疲れているところに電話をしたら迷惑かもしれないと思ってな」
私は思わず笑ってしまった。
「それ、私も同じこと考えてました」
「……そうか」
「先輩、疲れてるだろうなって。だから、電話したら迷惑かなって」
「……」
「私も、本当はもっと話したかったですけど」
そう言うと、先輩は少しだけこちらを見た。
「そうだったのか」
「はい」
「……そうか」
先輩は、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「なら、次からは……遠慮しなくてもいいか?」
「え?」
「電話をしたい時は、電話しても」
その言葉に、私は思わず笑顔になった。
「もちろんです!」
「……そうか」
「私から電話してもいいですか?」
「ああ」
「夜遅くても?」
「……まあ、俺が出られるなら」
「ふふっ」
「ただ、出なかったら寝ているかもしれない」
「その時は、また次の日に電話します」
「そうしてくれ」
たったそれだけの約束なのに、なんだか嬉しかった。
今までより少しだけ、先輩との距離が近くなったような気がした。
しばらく、二人とも何も言わない時間が続いた。
テレビはつけていない。
部屋の中には、かすかな時計の音と、グラスの中で氷が溶ける音だけが響いていた。
その静かな時間の中で、ふと、私は思い出した。
「あ、そういえば……」
「ん?」
「今さら…なんですけど、先輩、今日は泊まっていくんですよね……?」
口にした途端、少しだけ恥ずかしくなった。
先輩は一瞬だけ私を見た。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「ああ。そのつもりだったが……大丈夫か?」
「はい、もちろんですよっ」
私はすぐに頷いた。
「たくさんお話しできますね!」
そう言うと、先輩は少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
「それに、まだお酒も残ってますし」
「そうだな」
「あと、先輩に聞きたいこともいっぱいあります」
「聞きたいこと?」
「はい。先輩って、普段家では何してるんですか? 休日は何時に起きるんですか? 料理とかするんですか?」
次々と質問を口にすると、先輩は少しだけ困ったような顔をした。
「……そんなにあるのか?」
「ありますよー。だって、先輩のこと、まだまだ知らないことがいっぱいありますから」
「……そうか」
先輩はそう呟いて、グラスをテーブルに置いた。
そして、少しだけ迷うように視線を落とした。
「……りんりん」
「はい?」
「その……」
先輩の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「もう少し…近づいてもいいか?」
「え?」
一瞬、何のことか分からなかった。
でも、先輩の視線が自分のすぐ隣へ向いていることに気づく。
私は少しだけ笑った。
「……はい」
答えると、先輩はゆっくりとこちらに身体を寄せた。
そして、確かめるように、そっと私の腰に手を回す。
強く引き寄せられたわけではない。
それでも、先輩の腕の中に身体が収まった瞬間、胸の奥が大きく跳ねた。
「……先輩?」
「嫌だったか?」
「えっ?」
「いや……」
先輩は少しだけ言葉を探すように黙った。
「こういうことをしても、いいのかと思ってな」
その言葉に、私は思わず笑ってしまう。
「先輩……」
「なんだ?」
「今さらですか?」
「……今さらだな」
先輩は、少しだけ困ったように笑った。
私はその胸元に、そっと身体を預ける。
「嫌じゃないですよ」
「……そうか」
「むしろ……嬉しいです」
そう言うと、先輩の腕がほんの少しだけ強くなった。
背中に回された腕から、先輩の体温が伝わってくる。
近い。
さっきまで隣に座っていただけなのに、今は先輩の胸に背中を預けている。
付き合う前なら、こんなふうに先輩に抱き寄せられるなんて、想像すらできなかった。
それなのに今は。
「……りんりん」
「はい」
「今日は……来てよかった」
耳元でそう囁かれて、胸の奥がまた熱くなる。
「私もです」
私は、先輩の腕にそっと手を重ねた。
「先輩と、もっと一緒にいたかったので」
「……そうか」
「はい」
先輩の腕の中で、私は小さく笑った。
付き合い始めて初めての金曜日。
特別なデートをしたわけではない。
高級な料理を食べたわけでも、どこか遠くへ出かけたわけでもない。
私が料理を作って、先輩が食器を洗って、二人で少しだけお酒を飲んで。
そして今、私は先輩の腕の中にいる。
ただ、それだけ。
でも。
私はきっと、この夜のことを忘れないと思う。
こういう何気ない時間を、これからも先輩と一緒に過ごしていけたらいい。
そんなことを思いながら、私は先輩の腕にそっと身体を預けた。
そのまま、二人だけの夜は、ゆっくりと深まっていった。
先輩と恋人になって初めての週末なのに、一緒にいられるかな……。
仕事の合間にも、ついついそんなことばかり考えてしまう。
付き合い始めてからというもの、職場での先輩は相変わらず仕事で忙しそうにしていて、真剣な表情を一切崩さない。
廊下ですれ違うこともあったけど、
「先輩、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
という、これまでと変わらない挨拶を交わすだけ。
私たちの関係は会社では秘密にすると決めた。
だから、誰かに見られているかもしれない場所で恋人らしく振る舞うわけにはいかない。
それに私自身もまだ、先輩とどう接すればいいのか分かっていなかった。
「先輩」と呼ぶのは今まで通りなのに、その人はもう、ただの先輩ではない。
そう考えるだけで、目が合った時にどうすればいいのか分からなくなってしまう。
むしろ付き合い始めた今の方が、以前よりも距離を意識してしまっているほど。
この数日、私の業務は落ち着いていたけれど、先輩は連日のように忙しそうだったことも大きかった。とても日中にゆっくり話せるような雰囲気ではない。
でもそれなら、夜に電話すればいい。
そうは思うものの、先輩が何時まで会社に残っているのか私には分からなくて…
もう帰宅しているかもしれないし、まだ仕事をしているかもしれない。移動中かもしれないし、ようやく帰って休んでいるところかもしれない。
一度気にし始めると、どの時間にかけても迷惑になりそうな気がして、結局私から電話をかけることはできず…
メッセージくらいならと、そろそろ仕事が終わったかなと思う時間に『先輩お疲れ様です、お仕事終わりました?』と送ってみると、返ってきたのは『すまない、まだ仕事中』という一言だけ。
そんな感じで、週末の予定を切り出すタイミングを見いだせないまま迎えた金曜日だった。
(明日からの休み、先輩はゆっくり休みたいよね……私なんかと一緒に過ごす余裕、ないのかな……)
そんなことを考えていたとき、机の上に伏せて置いていたスマートフォンが短く震えた。
ちらりと画面に目をやると、表示された名前に一瞬で胸の奥が跳ねる。
先輩からだった。
『今日、仕事が終わったら部屋に行ってもいいか?』
たったそれだけの文章に、飛び上がりたいくらい嬉しくなる。
部署が違う先輩のデスクはフロアの向こう側。
少し目線を上げて遠目に様子を窺うと、先輩はいつも通りの真剣な横顔をしていた。
そう、ここは職場だ。
私は周りに気づかれないように表情を引き締め、サッとスマートフォンを手に取ると、短い返信を素早く打ち込んだ。
『もちろんです!』
送信して、すぐにまたスマートフォンを伏せる。
少し考えてから、やっぱりもう少し何か言いたくて、周りの目を盗んでもう一度だけ素早くメッセージを送った。
『わぁ、嬉しい!』
送信した直後、今度は少しだけ恥ずかしくなった。
素直すぎたかもしれない。
けれど、そんな私の気持ちなど知るはずもない先輩から、すぐに続きのメッセージが届く。
『ちょっと遅くなるかもだけど…』
私はほとんど反射的に返信した。
『全然大丈夫です!私は定時で上がれそうなんで、料理作って待ってます!』
送信してから、今度は別の意味で緊張し始めた。
……料理。
自分で言ってしまったけれど、大丈夫だろうか。
普段から自炊もしているし、一人で食べる分にはそれなりに作れる。
でも、好きな人に食べてもらう料理となると話は別だ。
あまり気合いを入れすぎるとかえって恥ずかしい気もするし、かといっていつもの適当な料理というのも寂しい。
そんなことを考えているうちに、先輩から返信が届いた。
『本当か…りんりんの手料理、楽しみにしてる』
その一文を見た瞬間、私は思わずスマートフォンを胸元に抱えた。
……もう。そんなふうに言われたら、頑張るしかないじゃないですか。
先輩が私の作った料理を食べて、「美味しい」って言ってくれて。
そのあと、二人でゆっくり過ごして……。
そこまで考えたところで、私ははっと我に返った。
……って、ここ会社!
慌てて顔を上げる。幸い、近くの席にいる同僚たちは、それぞれ自分の仕事に集中しているようだった。
よかった……。
私は小さく息を吐き、何事もなかったようにパソコンの画面へ視線を戻した。
今は仕事中です。ちゃんと仕事をしないと!
そう思ったはずなのに。
午後からの私は、仕事の合間に夕食の献立ばかり考えてしまっていた。
あれ、でもちょっと待って。よく考えたら私、先輩の好きな食べ物ってちゃんと知らないかも。
あの日、居酒屋で一緒に食事はしたけど、あのときは私も必死で何を食べたかなんて正直あまり覚えていない。
たしか……唐揚げとか、だし巻き卵とか。あとは、ポテトフライ……?
思い出せるのは、そんな定番の居酒屋メニューばかり。
でも、逆に考えれば、変わったものを頼んでいた記憶がないということは、そういう定番の料理が嫌いなわけではないのかもしれない。
うん。変に冒険するより、まずは定番。
そこに、私なりのアレンジを加えてみよう。
そう決めると、献立が少しずつ形になっていった。
先輩が好きかどうかは分からない。でも、きっと美味しいと思ってもらえるように。
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定時を少し過ぎたところで、私は会社を出た。
先輩はやはりまだ仕事が終わらないようで、もう少しかかるということだった。
帰り道のスーパーに立ち寄り、頭の中で考えていた献立に必要な食材を買い揃えて、足早に家へ帰った。
家に着くとすぐに手を洗い、買ってきた食材をキッチンに並べていく。
これはメインの料理に、これは副菜。
早速料理をしようと冷蔵庫に開けたその時。
「あ……」
私は小さく声を漏らした。
お酒がちょうど切れていたのに、買うのを完全に忘れていた。
先輩が買ってきてくれるかもしれないけれど、もし先輩も忘れていたら、せっかくの金曜日の夜なのに乾杯するものがない。
今からもう一度買いに出るか迷っていたちょうどその時、スマートフォンが震えた。
『21時くらいに着きそう。何かいるものある?』
タイミングが良すぎて、私は思わず笑ってしまった。
『すみません、お酒がなかったのでお酒だけお願いしますっ!』
そう送ると、すぐに『了解』と返ってくる。
たったそれだけのやり取りなのに、なんだか嬉しかった。
一緒に暮らしているわけでもないのに、夕食の買い物をして、足りないものを相手に頼んで、もうすぐその人が自分の部屋へ来る。それだけで、今までの生活が少しずつ変わっていくような気がした。
エプロンを身につけ、野菜を切り、下味をつけ、鍋に火をかける。
やるべきことが決まっていると、さっきまでの緊張も少しずつ落ち着いていった。料理をしている間は、余計なことを考えずに済む。
……そう思っていたのに。
「……美味しいって言ってくれるかな」
気づけば、独り言が漏れていた。私は慌てて首を振る。
だめだめ。期待しすぎちゃだめ。そう言いながらも、口元は自然と緩んでいた。
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料理の下準備をある程度終えたところで、時計を確認する。まだ少し時間がある。
先輩が来てからだと、きっと落ち着いて入っていられない気がした。
(時間的に考えると、先輩泊まってくよね…?)
先輩がいる中でお風呂に入るのは、まだ少し恥ずかしい。
そう思った私は、先にサッとお風呂に入ることにした。
いつもより早めにお風呂から上がり、スキンケアをして部屋着に着替えて鏡の前に立つ。
「……ちょっとだけ」
パウダーを軽くのせて、眉を描き足し、リップをひと塗り。
家なのに、こんなことしなくてもいいのかもしれない。
それでも、今日は付き合って初めて先輩を迎える夜だから。
少しでも「可愛い」と思ってもらえたら嬉しい。
鏡に映る自分を改めてチェックする。
フルメイクじゃないし部屋着だし、髪もまだ少し湿っているけど……
まあ、家なんだから、これでいいよね。
付き合う前だったら、こんな姿を先輩に見られるのは恥ずかしくて仕方なかったと思う。
でも、今は恋人なのだから。
「……恋人」
その言葉を頭の中で繰り返しただけで、急に顔が熱くなった。
両手で頬を押さえる。
だめだ。まだ全然、慣れない。
そのときだった。
玄関のチャイムが鳴り、私は思わず肩を跳ねさせた。
時計を見ると、21時を少し過ぎたところだった。
「き、来た……!」
急いで玄関へ向かい、ドアノブに手をかける。
けれど、そこで一瞬だけ手が止まった。
……どうしよう。
ただドアを開けるだけなのに、急に緊張してきた。
私は一度だけ深呼吸をしてから、ゆっくりとドアを開いた。
「遅くまでお疲れ様です、先輩!」
できるだけいつも通りに明るく笑ったつもりだった。
けれど、先輩は少し驚いた様子ですぐには返事をしなかった。
「……先輩?」
「あ、いや」
先輩は、なぜか少しだけ視線を逸らした。
「どうしました?」
「……その」
「はい?」
「風呂上がりか?」
「あ、はい。先に入っちゃいました」
「そうか……」
先輩は、また視線を逸らした。
……あれ?
私は首を傾げる。
「先輩、顔赤くないですか?」
「赤くない」
「赤いですよ?」
「……急いで来たからだ」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
「とりあえず、入ってくださいっ」
「お邪魔します」
先輩が部屋に入る。
その手には、頼んでいたお酒の入ったコンビニ袋があった。
「あっお酒、ありがとうございます! 受け取りますね」
「ああ、ありがとう」
袋を受け取って中を覗き込むと、缶ビールの横に、男性用の下着が入った小さなパッケージが見えた。
……あ。
やっぱり、今日泊まっていくんだ。
さっきからなんとなく考えていたことが、ようやく確信に変わった。
当たり前のことなのに急に顔が熱くなって、私は見なかったふりをして視線を上げた。
「……いや。こちらこそ、料理を作ってくれるんだろ?」
「はいっ!」
誤魔化すように元気よく頷くと、先輩は部屋の奥に並べられた食材や調理途中の料理に目を向けた。
「……本当に作ってくれたのか?」
「もちろんです!」
「……俺は幸せ者だ……」
「ふふっ。先輩、大げさですよっ」
私は笑いながら答えた。
それから、少しだけ迷って口を開く。
「ご飯、すぐできるんですけど……先輩、どうしますか?」
「どうする?」
「えっと……お風呂、先に入りますか?」
聞いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
自分からそんなことを聞くなんて、まるで先輩が泊まることを当然のように思っているみたいだった。
けれど、先輩は少しも気にした様子を見せずに答えた。
「……そうだな。急いで来たから、少し汗をかいた。借りてもいいか?」
「あ、はい! じゃあ、どうぞ。タオル、出しますね」
私は先輩にタオルを渡した。
それから「あ、ちょっと待ってくださいっ」と言いながら、クローゼットから厚手のスウェット上下を取り出す。
「これ、よかったら着てください。大きめサイズなので、たぶん先輩も着られると思うんですけど……」
「……ありがとう」
先輩はスウェットをちらりと見て、少しだけ口元を緩めた。
スウェットを渡した指先がほんの少し触れ合う。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が小さく跳ねた。
……キスだってしたのに。なんでこんな些細なことで、こんなにドキドキしちゃってるんだろう。我ながら、どうかしてる。
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先輩がお風呂に入っている間、私は最後の仕上げに取りかかった。
料理を温め直し、盛り付けを整える。
先輩が出てくる頃にちょうど完成するように、最後の料理を仕上げていく。
そうして、ちょうど料理をテーブルに並べ終えた頃。
「りんりん」
お風呂場の方から、先輩の声が聞こえた。
「はいっ!」
「もう出ていいか?」
「はい、どうぞー!」
しばらくして、髪をタオルで拭きながら先輩が戻ってきた。
私のスウェットを着た先輩を見た瞬間、思わず視線が釘付けになる。
大きめサイズのはずなのに、先輩が着るとちょうどいい。
というか……なんだろう、この感じ。
自分の部屋着を着ている先輩が、思っていた以上に……違和感がなかった。
(……だめだ。なんかすごくドキドキする)
先輩は、
「スウェットちょうど良かったよ、ありがとう」
と言いながらテーブルの上に並んだ料理を見て、ぴたりと足を止めた。
「……りんりん」
「は、はい?」
「……これ、全部作ったのか?」
「はいっ。けっこう頑張りました!」
先輩はしばらく料理を見つめていた。
それから、ふと思い出したように口を開く。
「……そういえば」
「はい?」
「このスウェット……りんりんのいい匂いがする」
「……っ、もー! 何言ってるんですか先輩!」
思わず顔を手で覆う私に、先輩は、
「事実……を言っただけだが」
と真顔で返した。
その表情がまた先輩らしくて、恥ずかしいのに笑えてきて、私は先輩の腕を軽く叩いた。
「そういうこと、さらっと言わないでください!」
「……なぜ?」
「なぜって……! も、もういいです。ご飯にしましょ!」
私は誤魔化すように席に着いた。
でも、耳の先まで熱くなっているのは、絶対に気づかれていると思う。
「じゃあ、乾杯しましょ!」
私は早く軽く酔いたくて、ビールを注いだグラスを持ち上げる。
「お疲れ様です!」
「お疲れ様」
グラスが軽く触れ合った。
そして、私は先輩が料理に箸を伸ばすのを、何気ないふりをしながら見つめていた。
……どうかな。
美味しいかな。
先輩の口に合うかな。
できるだけ普通の顔をしているつもりだったけれど、内心はまったく落ち着いていなかった。
先輩が料理を一口食べる。
その瞬間、私は思わず身を乗り出しそうになった。
「……美味しい」
「ほんとっ?」
自分でも驚くくらい、素早く反応していた。
「うん。美味しい」
「よかったー!」
心の底から安心して、私は大きく息を吐いた。
「先輩の口に合うか、ちょっと心配だったんですよ」
「心配する必要ないだろ」
「でも、好きな人に食べてもらうのは初めてなので」
言ってから、私はしまったと思った。
先輩の動きが止まる。
私も固まった。
……今のは。
言わなくてもよかったのでは?
「……りんりん」
「は、はい?」
「今のは……」
「わ、忘れてください!」
「いや、忘れない」
「忘れてくださいっ!」
「無理だ」
先輩が、少しだけ笑った。
その表情を見ていると、私もつられて笑ってしまう。
「……先輩、ずるいです」
「何が?」
「そうやって、すぐ嬉しそうな顔するところです」
「嬉しいからな」
その一言に、私はまた何も言えなくなった。
先輩は料理を食べ、ビールを飲み、そしてまた料理に箸を伸ばしていく。
その様子を見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「俺は……幸せ者だな」
先輩が、ぽつりと呟く。
「もー、先輩、それ二回目ですよ?」
「そうか?」
「はいっ」
私は笑った。
それから少しだけ考えて、先輩の方を見る。
「でも……私も幸せです」
先輩がこちらを見た。
「……そうか」
「はい」
恥ずかしかったけれど、ちゃんと伝えたかった。
「先輩とこうやって一緒にご飯を食べられるの、嬉しいです。付き合う前は、こんな日が来るなんて思ってなかったので」
先輩は、しばらく黙っていた。そして、
「俺もだ」
と、短く答えた。
その声には、先輩の気持ちがちゃんと込められているように感じた。
私は少しだけ笑う。
「先輩、昔は私のこと、完全に後輩としてしか見てなかったじゃないですか」
「……」
「やっぱり、そうですよね?」
「いや」
先輩はグラスを置き、少し考えるように視線を落とした。
「最初から、後輩としてだけ見ていたわけじゃない」
「……え?」
「ただ、自分で認めていなかった」
私は箸を持ったまま、固まった。
「それって……」
「今は、もう認めている」
先輩は、真面目な顔で私を見る。
「りんりんが好きだ」
……何度聞いても、慣れない。
「先輩」
「なんだ?」
「ご飯中にそういうこと言うの、反則です」
「なぜ?」
「顔が熱くなって、ご飯が食べられなくなるので」
「……それは困るな」
先輩が少しだけ笑う。
「せっかく作ってくれたのに」
「もうっ!」
私は笑いながら、先輩の肩を軽く叩いた。
付き合い始めたばかりの私たちの食卓には、まだ少しだけぎこちなさがあった。
でも、そのぎこちなささえも、今は嬉しかった。
---
食事を終えると、私は食器を片付けようと立ち上がった。
「じゃあ、洗い物しますねっ」
「あ、りんりん」
先輩も立ち上がる。
「洗い物は俺がやるから。ゆっくりしてて」
「えっ? そんな、先輩に後片付けなんてさせられないです」
「今は先輩後輩じゃない」
先輩は、食器を手に取りながら言った。
「対等な恋人同士だろ?」
その言葉に、また胸が跳ねる。
……恋人。
何度聞いても、まだその響きに慣れない。
「それに、俺は洗い物が好きなんだ」
「えっ?」
私は思わず聞き返した。
「洗い物が好き?」
「ああ」
「……先輩、テキトーなこと言ってないですか?」
「テキトーじゃない」
先輩はいたって真面目な顔をしていた。
「なんというか、洗い物って瞑想みたいで好きなんだ」
「……」
私はしばらく黙った。そして、
「ぷっ……」
耐えきれずに吹き出してしまった。
「あはははは! 出た! 先輩の謎発言!」
「ふざけているわけじゃないぞ」
「洗い物が瞑想って……!」
「いや、本当に」
先輩は少し困ったように眉を寄せた。
「あの……なんというか、無心でできる作業が好きなんだよな」
「ほえー……」
私は少し考えた。
「……確かに、分からなくもないです」
「だろ?」
「でも、私は洗い物をしていると、だいたい『面倒だなー』って思います」
「そうか」
「先輩は洗い物をしながら、何を考えてるんですか?」
「何も考えていない」
「それが瞑想?」
「ああ」
「じゃあ、今も何も考えてないんですか?」
何気なく尋ねた。
けれど、先輩の手が一瞬だけ止まった。
「……今は考えている」
「何をですか?」
先輩は、少しだけこちらを見た。
「今日、りんりんの部屋に来られてよかったな、と」
さっきまで笑っていたのに、急に、胸の奥が静かになった。
「……先輩」
「なんだ?」
「それは……ずるいです」
「またか?」
「はい」
私は笑いながら、先輩の隣に立った。
「私も手伝います」
「いい。俺がやる」
「でも」
「りんりんはゆっくりしていろ」
「恋人なのに?」
口にしてから、急に恥ずかしくなった。
先輩も一瞬、黙る。
けれど、やがて小さく息を吐いた。
「……じゃあ、一緒にやるか」
「はいっ」
私は先輩の隣に立った。
先輩が食器を洗い、私が受け取って水気を拭く。
たったそれだけの作業なのに、なぜか楽しかった。
「先輩」
「ん?」
「こういうの、いいですね」
「何が?」
「一緒にご飯を食べて。一緒に片付けをして」
私は、濡れた皿を拭きながら、少しだけ笑った。
「なんか……普通の恋人っぽいです」
先輩の手が止まった。
「普通の恋人?」
「はい」
私は少し考えてから続ける。
「普通に一緒にご飯を食べて、普通に話して、普通に笑って。そういうのが、なんか嬉しいです」
先輩はしばらく黙っていた。それから、
「俺も」
と、静かに言った。
「こういう時間が、好きだ」
その声は、いつもの先輩よりも少しだけ柔らかかった。
私は隣に立つ先輩を見る。
仕事中の先輩とも、会議中の先輩とも違う。
今、私の部屋で。
私が作った料理の食器を洗っている。
その姿を見ていると、改めて思った。
本当に、この人と付き合っているんだ。
私は、先輩の恋人なんだ。
その事実が、少しずつ、ゆっくりと自分の中に染み込んでいく。
---
洗い物が終わり、先輩が手を拭いた。
「終わったな」
「はいっ」
私はテーブルの上を片付ける。
食事も終わった。
片付けも終わった。
ふと時計を見ると、まだ夜は終わっていなかった。
そのことに気づいた瞬間、私は急に意識してしまった。
……このあと、どうするんだろう。
振り返ると、先輩がキッチンの前で少しだけ所在なさげに立っていた。
「……先輩? どうしたんですか?」
「いや……」
先輩は少しだけ視線を泳がせた。
「人の部屋でどうくつろげばいいのか、勝手が分からなくてな」
その不器用すぎる正直な言葉に、私は思わずくすっと笑ってしまった。
「もー。普通にリラックスして座っててくださいよ」
「ああ……」
「あ! せっかくだし、買ってもらったお酒の残り、もう少し飲みませんか?」
「そうだな」
私たちはグラスを持って、今度はテーブル越しではなく、窓際にあるソファに並んで座った。
腰を下ろした瞬間、ふと数日前の夜の記憶が蘇る。
あの日、先輩はコートを着たままこのソファに座り、震えるような低い声で「ずっと好きだった」と告白してくれたのだ。
あの時はまだ、私たちの間には「上司と部下」という薄氷のような壁があって、触れ合うことすらためらわれた。
でも、今は違う。
私たちは「恋人」として、同じソファに並んで座っている。
あの夜、告白のあとに抱き合って、キスもして、その後朝まで一緒に過ごしたのに。
それなのに、どうしてただ隣に座っているだけで、こんなにドキドキしてしまうんだろう。
その事実を改めて噛み締めると、胸の奥がきゅっと熱くなった。
ちらりと隣を見ると、先輩も少しだけ落ち着かない様子でグラスの縁をなぞっている。
もしかしたら、先輩もあの夜のことを思い出しているのかもしれない。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
その沈黙に耐えきれなくなったのか、先輩がふいに口を開いた。
「……りんりん」
「はい?」
「平日は……あまり連絡できなくて、すまなかった」
思いがけない言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
「え?」
「仕事が立て込んでいてな」
先輩はグラスを見つめながら続ける。
「帰ってからも、メッセージを返すだけで精一杯だった」
「あ……」
私は、先輩との短いやり取りを思い出した。
一言二言で終わってしまう、ここ数日のメッセージ。
「いえ、そんな……先輩が謝ることじゃないですよ」
「でも、付き合い始めたばかりなのに、ろくに連絡もできなかっただろ」
「……」
「本当は、もっと話したかった」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
「電話も……しようとは思っていた」
「えっ?」
「何度かスマートフォンを手に取った」
先輩は少しだけ困ったように眉を寄せる。
「だが、もう遅い時間だったし、疲れているところに電話をしたら迷惑かもしれないと思ってな」
私は思わず笑ってしまった。
「それ、私も同じこと考えてました」
「……そうか」
「先輩、疲れてるだろうなって。だから、電話したら迷惑かなって」
「……」
「私も、本当はもっと話したかったですけど」
そう言うと、先輩は少しだけこちらを見た。
「そうだったのか」
「はい」
「……そうか」
先輩は、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「なら、次からは……遠慮しなくてもいいか?」
「え?」
「電話をしたい時は、電話しても」
その言葉に、私は思わず笑顔になった。
「もちろんです!」
「……そうか」
「私から電話してもいいですか?」
「ああ」
「夜遅くても?」
「……まあ、俺が出られるなら」
「ふふっ」
「ただ、出なかったら寝ているかもしれない」
「その時は、また次の日に電話します」
「そうしてくれ」
たったそれだけの約束なのに、なんだか嬉しかった。
今までより少しだけ、先輩との距離が近くなったような気がした。
しばらく、二人とも何も言わない時間が続いた。
テレビはつけていない。
部屋の中には、かすかな時計の音と、グラスの中で氷が溶ける音だけが響いていた。
その静かな時間の中で、ふと、私は思い出した。
「あ、そういえば……」
「ん?」
「今さら…なんですけど、先輩、今日は泊まっていくんですよね……?」
口にした途端、少しだけ恥ずかしくなった。
先輩は一瞬だけ私を見た。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「ああ。そのつもりだったが……大丈夫か?」
「はい、もちろんですよっ」
私はすぐに頷いた。
「たくさんお話しできますね!」
そう言うと、先輩は少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
「それに、まだお酒も残ってますし」
「そうだな」
「あと、先輩に聞きたいこともいっぱいあります」
「聞きたいこと?」
「はい。先輩って、普段家では何してるんですか? 休日は何時に起きるんですか? 料理とかするんですか?」
次々と質問を口にすると、先輩は少しだけ困ったような顔をした。
「……そんなにあるのか?」
「ありますよー。だって、先輩のこと、まだまだ知らないことがいっぱいありますから」
「……そうか」
先輩はそう呟いて、グラスをテーブルに置いた。
そして、少しだけ迷うように視線を落とした。
「……りんりん」
「はい?」
「その……」
先輩の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「もう少し…近づいてもいいか?」
「え?」
一瞬、何のことか分からなかった。
でも、先輩の視線が自分のすぐ隣へ向いていることに気づく。
私は少しだけ笑った。
「……はい」
答えると、先輩はゆっくりとこちらに身体を寄せた。
そして、確かめるように、そっと私の腰に手を回す。
強く引き寄せられたわけではない。
それでも、先輩の腕の中に身体が収まった瞬間、胸の奥が大きく跳ねた。
「……先輩?」
「嫌だったか?」
「えっ?」
「いや……」
先輩は少しだけ言葉を探すように黙った。
「こういうことをしても、いいのかと思ってな」
その言葉に、私は思わず笑ってしまう。
「先輩……」
「なんだ?」
「今さらですか?」
「……今さらだな」
先輩は、少しだけ困ったように笑った。
私はその胸元に、そっと身体を預ける。
「嫌じゃないですよ」
「……そうか」
「むしろ……嬉しいです」
そう言うと、先輩の腕がほんの少しだけ強くなった。
背中に回された腕から、先輩の体温が伝わってくる。
近い。
さっきまで隣に座っていただけなのに、今は先輩の胸に背中を預けている。
付き合う前なら、こんなふうに先輩に抱き寄せられるなんて、想像すらできなかった。
それなのに今は。
「……りんりん」
「はい」
「今日は……来てよかった」
耳元でそう囁かれて、胸の奥がまた熱くなる。
「私もです」
私は、先輩の腕にそっと手を重ねた。
「先輩と、もっと一緒にいたかったので」
「……そうか」
「はい」
先輩の腕の中で、私は小さく笑った。
付き合い始めて初めての金曜日。
特別なデートをしたわけではない。
高級な料理を食べたわけでも、どこか遠くへ出かけたわけでもない。
私が料理を作って、先輩が食器を洗って、二人で少しだけお酒を飲んで。
そして今、私は先輩の腕の中にいる。
ただ、それだけ。
でも。
私はきっと、この夜のことを忘れないと思う。
こういう何気ない時間を、これからも先輩と一緒に過ごしていけたらいい。
そんなことを思いながら、私は先輩の腕にそっと身体を預けた。
そのまま、二人だけの夜は、ゆっくりと深まっていった。
