銀色の雲の上

授業が終わり、アレクサンダーは、意を決してミハエルに声をかけた。

「ミハエル」

返事もせず振り返ったミハエルの顔を見て、アレクサンダーは息を飲んだ。

疲弊し、消耗しきった表情(かお)をしている。

ミハエルの顔は蒼白く、目の下に(くま)ができている。
いつもは可憐な花びらのような唇も精気がない。
なによりその眼差しは、ヒビ割れたガスラ玉を彷彿とさせるような酷い有様をしていた。

自分が思っている以上に、昨日の出来事はミハエルのことを傷つけてしまったのかもしれない。
ミハエルに拒絶される覚悟だったアレクサンダーは、ミハエルの只ならぬ様子にそれ以上迂闊に声をかけることもためらわれる。

ミハエルは返事もせずに壁の方に向き直ると、華奢な身体に外套をまとわせている。

ザラついた薄いガラスにヒビが入ったような、異様な空気をまとっている。

アレクサンダーはこの日一日ミハエルのことを気にしていたが、ミハエルはいつものように最前列の席に座って、決して振り返らなかった。
休憩時間に担任教師に呼び出されて席を立っていたが、もしかすると教師もミハエルの只ならぬ様子に心配になったのかもしれない。
そう思いたくなるほどに酷い様子をしていた。

ミハエルは静かに教室を出た。
アレクサンダーもいつものようにミハエルの後ろをついていく。

二人はトボトボと帰り道を歩いた。

アレクサンダーはミハエルから烈しく突っぱねられる覚悟をしていたが、ミハエルは街路を歩きながらも押し黙ったままだった。
そのかわり、アレクサンダーを突き放すようなこともしない。
アレクサンダーは、ミハエルが一緒に歩くのを許してくれているのだと解釈することにした。

ギムナジウムから少し遠のいたところでアレクサンダーは意を決した。

「ミハエル」

ミハエルは隣でビクリと細い肩を震わせた。
立ちすくみ、おそるおそるアレクサンダーの方を見上げている。
顔色はくすみ、どこかすがるような眼をしている。

アレクサンダーは、帽子のツバの下のミハエルの目を真っすぐ見つめると、はっきりとした口調で伝えた。

「昨日は、ごめんな」

ミハエルが驚いた様子で目を見開く。

「お前が違うというのなら、違うんだ。あの件は俺からは二度と触れない。いいな?」

「え? ああ……」

ミハエルは目を泳がせている。
それから観念したかのように小さな声で呟いた。

「僕も………悪かったよ」

アレクサンダーはホッとした。
今にもミハエルと肩をがっしりと組み交わしたい気分だったが、踏みとどまった。
ミハエルは触れられることを嫌がる。
これからは不用意に触れることは控えるべきだ。

二人は互いに肩の力が抜けたようになり、仕切りなおすようにダミッシュ邸に向かって石畳の街路を歩き始めた。
アレクサンダーはこの日あった他愛のないことを、これまでそうしてきたのと同じような調子で話して聞かせる。
ミハエルは相変わらず静かであるが、頷きながら耳を傾けている。
ミハエルもそれまでの空気を取り戻そうとしているかのようだった。


小屋に着くと、ミハエルが書机のランプの灯りをつけた。

「ミハエル、マッチをくれ」

アレクサンダーは、いつものように暖炉に火を焚べる旨を申し出る。
最近ではアレクサンダーが暖炉の火つけの役を担っている。
ミハエルからマッチを受け取り暖炉に火がつくと、二人はいつものようにテーブルの上に教科書を広げた。

二人で各々課題に取り組むと、アレクサンダーはしばらくしてテーブルの向かいに座っているミハエルの様子をそっと観察した。
うつむいた顔に長い睫毛が繊細な影を落としている。
ミハエルの顔色は先ほどよりも少し落ち着いたようだ。

しばらく二人で勉強に集中し、区切りの良い所で課題を終わらせると、アレクサンダーはお茶の準備を始めた。
ミハエルもそれに気づいて、いそいそと教材を片付けている。

テーブルの上に茶器を並べると、空間が一気に華やかになる。
カップからは温かな湯気が立ちのぼり、小屋の中は紅茶の良い香りに包まれる。

アレクサンダーは鞄からごそごそと紙袋を取り出した。ん、とミハエルに差し出す。

ミハエルは控えめに受け取ると、そっと紙袋の中を覗いた。
白くてふわふわのかたまりを珍しそうに見つめている。

「ギモーヴだ」

アレクサンダーは食べるように促す。

ミハエルはギモーヴをおそるおそる口に入れた。

「………」

「フワフワで美味しいだろ?」

ひと噛みずつゆっくりと確かめるように咀嚼するミハエルに、アレクサンダーは優しく優しく尋ねる。

ミハエルは素直に頷いた。
どうやら気に入ってくれたらしい。
ミハエルはアレクサンダーにも食べるよう紙袋を差し戻している。

アレクサンダーは、そうだ、と鞄からあるものを取り出した。

「……これは?」

ミハエルはおずおずと、小さな陶器の容器を見つめている。

「軟膏だ」

以前から、ミハエルの手の霜焼けが気になっていた。
ところどころアカギレもできている。
霜焼けは一向に治る気配が無く、アカギレもだんだん酷くなってきていた。
アカギレの方は小さな瘡蓋が赤く点々と広がり、関節のあたりでとうとう皮膚がぱっくりと裂けて血が滲み始めている。

「よく効くんだぜ」

アレクサンダーが軟膏の入った小さな陶器の容器を差し出すと、ミハエルは小さい声で「ありがとう」と言って、素直に受け取った。

この日、ミハエルは裏門まで見送ってくれた。

アレクサンダーは意外の念に打たれた。
先日は初めて木戸のところまで見送ってくれたが、あのようなことがあった後で、わざわざこんなところまで見送りに来てくれるとは。

一体どういう風の吹き回しだろう。ミハエルの顔をまじまじと見つめる。

「なに……」

「いや」

アレクサンダーは嬉しい気持ちを隠しながら、なんともない風に答える。
どうしてこんなところで見送ってくれるのか尋ねれば、二度と同じことはしてくれないだろう。

密かに喜びを噛みしめながら、帰途につくことにした。

ミハエルが泉の少年かどうかの確認は、最早どうでも良い。

泉の少年は……またきっかけがあれば出会うことができるだろう。
アレクサンダーは、書机の引き出しに大切に仕舞い込んだリリーを思い出しながら、そんなことを思った。