銀色の雲の上

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ミハエルにとってあの泉での出来事は、奇跡だった。

あの会話が、銀色の雲が、金色の光が、空のすべてが。

あの日、アレクサンダーは空を指さした。
それから力強い眼差しでミハエルを見つめ、はっきりとした口調で言ったのだ。

「銀色の雲の上を見てみろよ」

アレクサンダーはあの時、なにも直接ミハエルのことを言葉で勇気づけてくれたわけではない。
ただ空を指し示し、一緒に見るよう促しただけだ。

けれども、彼と一緒に見たその空が、今もなおミハエルを励まし続けている。

今もなお無意識に空を見上げるのは、きっとあの時のアレクサンダーの一言がきっかけであるのに違いないのだった。

アレクサンダーは、狭い世界で俯いて生きていたミハエルに顔を上げる機会を与えてくれた。
空一面にたなびく銀色の雲とそこから差し込む金の光芒は、それまで灰色に見えていた欝々としたミハエルの世界に光がさすような思いであった。

だからこそミハエルには、アレクサンダーには余計に、泉の少年と一致して認識されたくないという思いがあった。
アレクサンダーが人を嘲ったり見下したりするような人間ではないことは分かっている。
けれどもミハエルは泉を去った後、エミリアと別れねばならなくなったことに酷く傷ついていた。
大好きな人をつなぎとめることもできず、また、教室で誰からも相手にされない不甲斐ない自分など、とてもではないが同じ人物と認識されたくない。

せめてあの時の世界の輝きはせめてそのままに、心の宝箱に仕舞っておきたかった。

(きず)のないままの思い出を、時折そっと覗きむことで心を癒めることができるからだ。
それで充分だった。
アレクサンダーがそれでは納得できないというのならば、いっそ疎遠になっても仕方がないのかもしれない。

(元に戻るだけだ)

アレクサンダーと出会う前の状態に戻るだけ。

ミハエルはハタと気づく。

(戻るだけ? 誰からも相手にされない、独りぼっちの状態に……?)

ミハエルはゾッとする。その途端、体中から一気に血の気が引き、胸で凄まじい勢いで空風が暴れはじめた。
この感覚はミハエルが最も恐れていることだ。
あまりの恐怖にミハエルはガタガタと打ち震える。寒くて暗くて必死にもがくのであるが、止め方が分からない。
ひたすらやむのを待つしかない。途方に暮れる。

(やっぱり、アレクサンダーと馴れ合っては、いけなかったんだ)

痩せて骨ばった体を両腕で抱え込む。

(独りぼっちが怖くなるから)

アレクサンダーがギムナジウムに編入して、まだほんの数ヶ月でしかない。

(寂しくなんかない)

言い聞かせる。

母も去っていった。エミリアも去っていった。
父も、ゲオルグも、教室の同級生たちもミハエルに背を向け続けている。
まるでミハエルなどそこに存在しないかのように。

アレクサンダーが一人去ったところでなんだというのだ。

(いいんだ。独りぼっちは慣れている)

そう言い聞かせながらも頭のどこかで勝手にアレクサンダーの屈託のない笑顔を思い浮かべている。
香りの良い紅茶、甘いお菓子、初めて目の前で調理してくれた温かなオムレツ。

孤独だけが反響する寒々しいこの部屋で、初めて温もりを感じたのだった。

夕刻のわずかな時間を日々アレクサンダーと過ごすうちに、少なくとも面白半分にミハエルに近づいているわけではないということだけは分かっていた。

心のどこかで、アレクサンダーが明日からも何事もなかったように話しかけてくれはしないかと期待している。

(我ながら、都合がいいな……)

今まで散々突き放してきて、それでも変わらず接してくれる奇特な奴などいるはずがない。
今回のことでアレクサンダーには愛想をつかされたはずだ。

(すがるようなことは、してはいけない)

ミハエルは震えながら布団の中でぎゅっと目を閉じた。

どんなに心が辛かろうとも、明日からも“青年ミハエル・ダミッシュ”を演じ切らなければならない。
生まれついて、そう母に命じられてる。

―――絶対に誰にもばれては駄目よ

母の声や様々に交差する感情の渦に呑み込まれ、ミハエルは布団の中でひたすら睡魔が自身を連れ去ってくれることを待った。