銀色の雲の上

アレクサンダーは、この日もギムナジウムの帰りにミハエルの小屋に足を運んでいた。

(ミハエルも、俺が訪ねることを諦め……、いや、認めてくれたようだ)

熱心に勉強するミハエルのテーブルの向かいで、アレクサンダーはしみじみとそんなことを思っていた。

先日初めて、アレクサンダーは小屋の暖炉でオムレツを作った。

何か喜ばせられるものはないかと考えを巡らせた結果、ミハエルの食事事情を垣間見た時に思いついたことを、ついに実行することにしたのだ。

それをミハエルは目の前でペロリとたいらげた。アレクサンダーは腹の底からふつふつと、何か言い表し難いほどの悦びのようなものが沸き上がってくるのを感じた。

アレクサンダーはひとつ前の週末、自宅の厨房にこっそり足を運んで料理を教えてもらうよう料理長(シェフ)に頼んでいた。

ゲルステンビュッテル家では、菓子職人(パティシエ)だけでなく、料理長(シェフ)もかの美食の国で実績のあった者を雇っている。
厨房付きの使用人たちは、料理長(シェフ)料理人(コック)、パン焼き職人に菓子職人(パティシエ)、それから調理補助まで含むと、それなりに大所帯である。

アレクサンダーはひとつ前の週末、自宅の厨房にこっそり足を運んで料理を教えてもらうよう料理長(シェフ)に頼んでいた。

立場のある客を招き入れるのに食事は重要であるため、自ずとそうなるのであった。

子どもたちは厨房への出入りを禁止されている。
そんなことにはおかまいなしに、幼い頃いたずら小僧で通っていたアレクサンダーは、親の目を盗んでは厨房や食品貯蔵室にたびたび潜りこんでいた。

豊かな食材、良い匂いのする食事やデザート、新しい献立(メニュー)

厨房は美味しいもので溢れていた。
料理人たちは、味見と称して、よくつまみ食いをさせてくれた。

調理器具に触らせてもらったり、こっそり料理の手伝いをさせてもらったりしたこともある。
幼いアレクサンダーにとって、厨房は楽しい遊び場だったのだ。

もちろん、母親に見つかるとこっぴどく叱られたものだ。
けれども、厨房の使用人たちは状況の許す限り、アレクサンダーが出入りするのを許してくれた。
アレクサンダーは厨房の人たちから可愛がられていた。
しかし、いつのまにか厨房を覗くことはなくなっていった。
アレクサンダーも大きくなるにつれ、厨房への興味が自然と薄れていったのだった。

先週末に厨房に足を踏み入れたのは、実に何年ぶりだっただろうか。

料理人たちは驚き、大層喜んでくれた。

「坊ちゃん、今日はどのようなご用件で?」

古参の料理長(シェフ)が目くばせしてみせる。
アレクサンダーは真剣な顔つきで頼み込んだ。

「料理を教えてほしいんだ」

料理長は辺りを見回し「奥様には内緒で」と声をひそめながら、快く引き受けてくれた。

それから毎日、アレクサンダーの猛特訓が始まった。

卵を割るところから始まり、納得のいく仕上がりに作れるようになるまで一週間かかった。

ミハエルがオムレツを食べ終わるころ彼の頬に血の気が差すのを見て、アレクサンダーは嬉しくなった。

(もっと料理のレパートリーを増やそう)

心の中で、そう決意したのだった。

ちなみに失敗したオムレツは、使用人たちの賄いとして連日食卓に並ぶことになったのは、ミハエルにも両親にも内緒である。

この日のアレクサンダーは、ミハエルのためにお菓子を持ってきていた。

アレクサンダーにとって差し入れを考えることは、もはや日々の楽しみになっている。

二人でいつものようにテーブルで課題を解きながら、ミハエルはいつにも増して病的なまでに勉強に集中していた。
彼の集中力には普段から目を見張るものがあるが、この日はアレクサンダーが心配になるほど熱心にやっている。

アレクサンダーは、さりげなくいつもより早く勉強を切り上げることにした。

整理棚に置いている茶葉を取り出し、紅茶を淹れる。
テーブルの上に広げたお菓子は、マカロンだ。

「マクローネンとは趣きが違うんだね」

ミハエルは感心しながらマカロンに手を伸ばしている。帝国で古くから親しまれているマクローネンは、見た目がゴツゴツしたナッツの香ばしい素朴なお菓子である。
一方でマカロンは表面がツルツルとしてクリームが挟まっており、見た目が洗練されている。
品の良い見た目に、帝国では高級菓子として菓子店に並べられる。

「お店で見たことはあるけど、食べるのは初めてだ」

先ほどまで一心不乱に勉強に取り組んでいたミハエルは、お菓子に気がほぐれたのか機嫌が良さそうだ。
カップに口をつけている。

アレクサンダーは、ついにあのことを切り出すことにした。

「ミハエルさ」

「何?」

「これ」

アレクサンダーは胸の内ポケットから、リリーを取り出す。

ミハエルの顔が一瞬にして凍りつく。

アレクサンダーはミハエルにリリーを差し出す。

「もしお前が本当はあの時の泉の少年だったとしたら、この人形はお前に返した方がいんじゃないかと思ったんだ」

ミハエルの眉間がピクリと動いた。

「なあ、本当のことを言ってくれ。あのとき泉の少年は、お前だろう?」

ミハエルは沈黙している。

ミハエルがしばらく黙り込んでいるのに痺れを切らし、アレクサンダーは畳かけるように問うた。

「なあ、ミハエル。エミリアという名の……」

その瞬間、ミハエルがバシッと人形を払いのけた。

「それは僕じゃないと言っているだろう!」

ミハエルは見たこともない形相をしている。

「二度とその話をするな!」

目を見開き、フーフーと肩で息をしている。
体中の神経を、針を逆立てるようにして全身で怒っていた。

ミハエルの余りの剣幕に、アレクサンダーはどうすればよいのか分からなくなる。

「……悪りぃ」

やっとのことで言葉にすると、足元に落ちた布の人形を拾い上げた。

「出てけよ……」

ミハエルの声はかすれ、震えている。

アレクサンダーはミハエルの方を見てハッとした。壊れそうな表情だ。

「ミハエル、ごめん、もう言わない。ごめんな」

「出てけよ!」

ミハエルの怒鳴り声が狭い小屋の中に響いた。

アレクサンダーは取り繕うことも出来ず、この日は小屋を立ち去ることしかできなかった。