銀色の雲の上

アレクサンダーはその夏、別荘からそう遠くない森の木かげで昼寝をしていた。

予備学校(フォアシューレ)の長い夏季休暇を味わっている。 

兄弟たちと遊び疲れると、こっそり抜け出してこの場所にくる。

泉が清らかな水をたたえ、涼しい風が吹き、とても気もちのいい場所だ。

アレクサンダーにとって、とびきりの隠れ()である。

しばらく昼寝をして、ふと目が覚める。

ゆっくりと上半身を起こして、んん、と伸びをした。

よく眠れた。

(そろそろ別荘に戻るか)

のんびりと立ち上がったその時、茂みのちょうど切れ目から人影が見えた。

アレクサンダーは足音をたてないように、そっと泉の方を覗きこんだ。

ハッと息を飲む。

(あ、天使)

そこには天使がいた。

光をまとった天使が。

雲の切れ目から日の光が差し込み、陶器のようになめらかな肌が泉とともに照らし出されている。

天使は神々しくも光り輝いていた。

目を凝らすと、それは人間の少年だった。

少年は泉の畔に座り込んで、キラキラと反射する水面を見つめている。

泉の水面がそよ風によって穏やかになでられ波紋を描き、木立がさやさやと音をたてていた。

緩やかにウェーブのかかった髪が、少年の頬でやわらかに揺れている。

アレクサンダーは、少年に釘付けになった。

よく見ると、少年は身なりが丁寧に整えられている。

アイロンのきいた清潔な真っ白いシャツ。

吊りベルトをさげた上質な半ズボン。

つま先までピカピカに磨きこまれた革靴。

少年はズボンのポケットから布でできた人形を取り出したかと思うと、そっと目を閉じてすりすりと頬でなではじめた。

それから人形を両手で包み込み、まるで宝物を愛でるかのようにうっとりと眺めている。

毛糸で縫いつけられたお下げを、くるくると指先に巻きつけるように触れている。

少年は、人形の頬にやさしく口づけしてみたり、ほほ笑みかけてみたりして、しばらく遊んでいた。

アレクサンダーは少年から目を離せなかった。

(もっと近くで見たい)

思わず一歩踏み出す。

と、その時、小枝を踏んでパキッと足元で音を鳴らしてしまった。

「だれ?」

ハッと少年は振り返ったかと思うと、とっさに背中に布人形を隠している。

一瞬の沈黙。

目の合った二人は、そのまましばし見つめ合った。

少年が、立ち去ろうとじりじりと後ずさりをはじめる。

「待って!」

アレクサンダーは、はっきりと呼び止めた。

ズンズンと少年に近づく。

「うちの別邸がこの近くにあるんだ」

アレクサンダーは少年に話しかけた。

少年は、顔を強張らせて固まっている。

今にも走り去ってしまいそうだ。

「ここ、おれの隠れ場所でさ」

アレクサンダーはニッと笑いかける。

「たまに昼寝してるんだ。さっきもそこで」

ほら、と先ほどまでいた木陰を指さす。

少年は少しだけ緊張がほどけたようだった。

「そう……」

花びらのような唇に、小さな笑みを浮かべている。

「人形が好きなのか?」

「ううん!」

少年は顔を蒼くさせて、とんでもないというふうに首を横に振った。

人形を後ろ手にかくしたままだ。

「好きなんだろ? さっきから見てた」

アレクサンダーが笑顔を向けると、少年は観念したように背中の人形をそろそろと胸の前で抱きしめた。

「でも、男の子が人形を好きなのは、悪いことでしょう?」

「ん?」

「母さまが、男の子が人形遊びするのは悪いことだって」

うーん、とアレクサンダーは少し考える。

「ううん、べつに。おれも人形あそびはするぜ」

その瞬間、少年がパッと顔を明るくさせる。

「ほんとう?」

「お、おう」

少年から唐突に晴れやかな顔を向けられ、アレクサンダーはドキッとした。

アレクサンダーの言う人形あそびとは、妹をあやすことなのだが。

「でも、人形であそんでいると母さまに怒られるから……」

「なんで?」

「母さまは、お人形あそびなんて男の子らしくないって」

少年はしょんぼりしている。

「母ちゃん、きびしいんだな」

アレクサンダーはポリポリと頭をかいた。

少年はうつむいて、ギュッと両手で人形を抱きしめている。

「母さまはいつも『男の子らしくしてなくちゃ駄目だ』って」

たしかに、目の前の少年は男とも女とも判別がつかないような、なんとも中性的な容姿をしていた。

もしかすると少年の母親には、それが頼りなく、女々しく見えてしまうのかもしれない。

アレクサンダーは幼いなりに頭をはたらかせ、そう考えてみる。

「なあ、その人形みせて」

アレクサンダーに言われ、少年はためらいながらも人形を差し出した。

少年から人形を受け取ると、アレクサンダーはまじまじとそれを見つめた。

その人形は、布を縫い合わせただけの簡単な作りをしていた。

糸の運びの美しさから、それが心を込めて手作りされたものだということがよく分かる。

毛糸の三つ編みの先には、リボンが結ばれている。

赤い糸で縫いつけられたニコリとほほ笑む口。

素朴でなんとも温もりのある人形だ。

少年が、はにかみながら教えてくれる。

「エミリアが作ってくれたんだ」

「エミリア?」

子守(キンダーメートヘン)のエミリアだよ」

少年は、エミリアがいかに優しくて素敵な人物か説明し始めた。

エミリアというその子守は、いつも少年のことを甲斐甲斐しく世話をしてくれるのだという。

いつも一緒に居て、人形あそびやおままごとに付き合ってくれるのだと。

エミリアという子守に、少年は完全に心を開いているようだ。

「この人形はね、リリーっていうんだ」

少年が嬉しそうに教えてくれる。

「エミリアが内緒で作ってくれたんだ。母さまに見つかると怒られちゃうから」

(人形のことも、エミリアのことも、大好きなんだな)

少年の顔を見つめながら、アレクサンダーはそう思った。

(そういえば)

アレクサンダーはポケットの中をゴソゴソと探し、あるものを取り出す。

「これ、やる」

ん、と少年に差し出したのは、貴婦人を模した陶器の人形だ。

顔に品の良い笑みを浮かべている。

アレクサンダーは男女合わせて八人兄弟の真ん中の子である。

陶器の人形は、妹をあやすために持ち歩いていたのを、そのままポケットに突っ込んで忘れていたものだ。

手のひらに収まるほどの大きさで、白磁の手触りがなめらかである。

ドレスまで精巧に花の模様が絵付けされ、裾は金で縁どられている。

「わぁ!」

少年は歓声を上げた。

眼を輝かせ、溢れんばかりの笑顔だ。

その瞬間、アレクサンダーは強烈に胸が揺さぶられる思いがした。

少年の眼に、まるで大聖堂のバラ窓に(いざな)われたかのような錯覚に一気に陥る。

虹彩が角度によって煌めきを変え、光のあてられたステンドグラスのようにキラキラと輝いていた。

(なんて美しいんだ……)

その吸引力に、なんだか頭がクラクラする。

「本当にもらってもいいの?」

少年に笑顔で話しかけられて、ハッと我に返る。

少年の唇からは、真珠のような歯が覗いている。

「お、おう」

アレクサンダーは、どぎまぎしながら返事をした。

少年は宝物に触れるかのように、両手でそっと陶器の人形を受け取った。