銀色の雲の上

日曜日の昼下がり、教会から帰ってきたミハエルは洗濯部屋(ヴァッシュキュッヘ)の隅にいた。

戸口の傍のアイロンテーブルで、ひっそりとシャツにアイロンをあてている。

洗濯部屋は、がらんとしている。

家中の汚れた衣類が一同にこの場所に集められ、毎月、数日かけて使用人たちによって洗われる。
洗濯は使用人たちが担う家事の中でも、最も重い労働の一つだ。

ミハエルは洗濯も自身で全て担わなくてはならない。
衣服どころか、シーツ類も一切合切自分で洗濯しなくてはならない。
使用人たちは大釜で一斉に煮沸を使うが、ミハエルは小さな洗い桶と洗濯板を借りて一枚一枚手洗いする。
裏手の井戸で水を汲むところから全てやらなくてはならない。

そうするよう、()から言いつけられているからだ。

既に先日洗い終わった衣類たちを、上階の隅で乾かしていた。
いっそ全ての作業を使用人に任せることができれば楽なのに、とも思うが、使用人たちも()からそういったことは固く禁じられているだろうから仕方がない。

そしてアイロンもまた例外ではない。
ミハエルがアイロン作業のために洗濯部屋に入れるのは、部屋を稼働させた週の日曜日に限られていた。
ミハエルは受け入れるしか選択肢がなかった。
外にアイロンを持ち出すことは固く禁じられている。
ミハエルはちょうど良い大きさの炭火を、小屋の暖炉から探して持ち込む。

ミハエルはシャツにアイロンをかけながら、緊張していた。

アイロンは熱の加減を慎重にみないと、あっという間に衣類を焦がしてしまう。
本来アイロンは、熟練工が担う仕事だ。
元来几帳面で器用な質であるため、作業に慣れるのは早かったものの、やはり神経を使う。

緊張をしているのは、なにもアイロン作業だけが理由ではない。

(一刻も早く終わらせて、ここを出なければ)

ミハエルは、手元では丁寧にアイロンをあてながらも、恐怖と焦りで額にじりじりと汗を浮かべていた。

戸口の反対側には、母屋につながる扉がある。

扉の向こうに足を踏み入れることを、ミハエルは許されていない。

今頃屋敷の住人たちは皆、思い思いに過ごしているはずだ。
ゲオルグ、フランツ、継母のクリスティーナ。
父親が屋敷にいるのか、それとも遠方へ出張しているのか、ミハエルは把握させてもらえない。

ダミッシュ家では、かの紳士の国のやり方に倣い、日曜日には使用人全員に休みをとらせている。
使用人たちも各々教会へ行ったり、好きな場所に出掛けたりして、思うように過ごしていることだろう。
無論、業者とのやりとりも休みである。

シンと静まる洗濯部屋で、ミハエルはアイロンの熱気を浴びながら、必死で衣類をのばし続けた。
作業日には(ボイラー)で猛烈な熱気と蒸気に包まれるこの部屋も、火の気のない今は外気とさして変わらない。
特にこの日は風が強く、小屋から本宅へ歩くだけでも体中が凍りつきそうだった。
霜焼けで赤紫色に腫れた指がジンジンする。

けれども、霜焼けの痛みなど気にしている場合ではなかった。

(早く、早く作業を終わらせないと)

手が(はや)る。

()に見つかる前に、早く)

ミハエルはこの部屋に足を踏み()る時間を、わざと散らばらに設定していた。

()は毎回この場所に来るわけではない。
それは同時に、()がいつ来てもおかしくないということでもある。
()には絶対に、アイロンのために洗濯部屋に来る時間帯を把握させたくなかった。

ミハエルは、ハッとアイロンを握る手の動きを止める。

扉の向こう側に人の気配を感じる。

屋敷側の扉の錠が、ガチャガチャと音を立てている。

ミハエルは咄嗟にアイロンを隠すと、自身も即座にアイロンテーブルの下に身を(かが)めた。

ガチャリと扉が開き、人が入ってきた。

コツ、コツ、と音を立てながら、その人物はゆっくりと近づいてくる。

ミハエルの体から、一気に血の気が引く。

一方で心臓は、ドクドクと痛いほど跳ね上がっている。

早鐘のように脈打つ心臓と、冷え切って痺れる手足を同時に感じながら、ミハエルは、じっと息を潜めた。

コツ、とその人物がミハエルの前で立ち止まる。

「おい」

ミハエルはビクッと肩を震わせた。

おそるおそる足元から見上げると、そこにはゲオルグが立っていた。

「あ……」

次の瞬間、ミハエルは胸ぐらをつかまれていた。体が浮き上がり、ゲオルグに勢いよく壁に打ちつけられる。

「お前、いつまでそうやっているつもりなんだよ」

太くて冷たい声が洗濯部屋に響く。

「迷惑なんだよ」

「ご…ごめん、なさい……」

ミハエルは、声を絞り出す。

ゲオルグは、なおも襟をつかむ手に力を込めている。

「…ぅぐッ………っ」

体を壁に押さえつけられ、ミハエルの口から呻き声が漏れる。
次の瞬間、ゲオルグに思い切り床に叩きつけられていた。
体が弾き飛ばされ、ミハエルはドサッと床に倒れ込む。

「………っ」

投げ出された拍子に体を床に思い切り打ち付け、息ができなくない。
身動きのとれないまま、しばらくもんどりうった。

「俺のことをバカにしているんだろう」

ゲオルグの声は切っ先の削られた氷のごとく、冷ややかで鋭い。

「ち…違い………ま、す……」

ミハエルは呼吸を取り戻すと、うつ伏せに這いつくばりながら、やっとのことで言葉を捻り出した。

「そういうえばさ」

ゲオルグが切り出す。銀縁の眼鏡が冷たく光り、顔には面白そうに薄ら笑いを浮かべている。

「エミリアは今頃、どうしているんだろうな?」

ミハエルはドクっと心臓が跳ね上がった。
「そ、そのことは……」

言わないで、と口に出す前に、ゲオルグに耳をグイッと()じり上げられていた。

「っ……」

這いつくばっていたミハエルは、千切れるほど強い力で引っ張られ、体を起き上がらせていた。

ゲオルグがミハエルの耳元で囁く。

「エミリアはさ」

ゆっくりと耳打ちをする。

「や、やめ」

「どこぞで野垂れ死んでいるかもな?」

ミハエルは凍りついた。

ゲオルグは口元に意地の悪い笑みを含ませ、なおも追い打ちをかけてくる。

「お前のせいだ」

とどめを刺さすように言い放つと、ゲオルグは手をミハエルから離した。

ミハエルはドサッとその場に崩れ落ちる。

頭の中が真っ白になる。

ゲオルグは悪魔のような笑みを顔に浮かべながら、本宅の奥へと戻っていった。
彼は、地獄の門番どころではない。
ミハエルを地獄の底に突き落とす、業火の執行人だった。
茫然自失とするミハエルを代弁するかのように、部屋の外では風がびょうびょうと(むせ)び泣いていた。