銀色の雲の上

一日の授業が終わり、教室の空気は弛緩していた。

生徒たちは鞄に教材を詰めながら、思い思いに帰り支度をはじめている。
教室の中はだらしのない喧騒に包まれていた。

(一刻も早く教室を出たい)

さっさと教室の後ろまで行って外套を取り、ミハエル制帽をかぶる。

ミハエルはこの日、酷く神経をすり減らして過ごした。

背中ごしに教室の者たちの空気を読み取ろうと、いつもよりも一層神経を研ぎ澄ませ、嘲笑を含んだ声や眼差しがこちらに向けられていないか必死に把握しようとした。

今のところ、ミハエルが心配したような気配はないように感じている。

つまるところ、誰も自分に興味などなさそうだ。

(どうやら、アレクサンダーは本当に約束を守ってくれたようだ)

ミハエルは、ほんの少しだけホッとする。

(あれだけズカズカと勝手に人の家に押し入っておいて、こういうところは妙に義理堅いんだな)

約束したことを守るだけの良心は持ち合わせているようだ。

だからと言って警戒心を解くつもりなどない。

―――気を許してはいけない。

そもそもアレクサンダーは、使用人の後ろについて勝手にダミッシュ家の敷地内に入り、勝手にミハエルの小屋に踏み込み、勝手にテーブルの上の物に触れようとした。

そして、気安くミハエルに触れてきたのだ。

改めて思い返すと、信じられない奴である。
いったいどういう神経をしているのだろうか。

ひとつの約束が守られたからといってなんであろう。

そんなもの、彼の采配に過ぎない。

ミハエルにとって、アレクサンダーは危険人物に他ならない。

急いで外套を羽織っていると、後ろから声をかけられる。

「ミハエル、一緒に帰ろうぜ」

ミハエルはドキッとした。
振り返ると、そこにはアレクサンダーが立っている。

「………」

気まずさに沈黙する。

アレクサンダーの屋敷はミハエルの自宅とは反対方向にある。
一緒に帰ろうなど、どういうつもりなのだろう。

これから昨日のことを面白半分に根ほり葉ほり訊き出すつもりなのだろうか。

ミハエルは、体が強張るのを感じた。

(正直、このまま昨日のことなど何もなかったかのように過ごしたい)

そんな気持ちとは裏腹に、アレクサンダーは隣で外套を羽織り、一緒に帰る支度をしている。

これ以上つきまとわれなくないので、口をきかないまま足早に教室を出た。

アレクサンダーを振り切るつもりで校舎の階段を足早に降りる。

それなのに、アレクサンダーは歩調を合わせて後ろから素早くついてくる。

ミハエルはたまらず階段の踊り場で振り返った。

「……なぜ僕につきまとうんだ」

「だって、俺ら友だちだろ?」

アレクサンダーは、ニッと笑ってみせる。

ミハエルは思いがけない返答に、声を上げてしまった。

「はっ? いつの間に友だちになったんだ」

友だちになった覚えなど、ない。

ミハエルにとって、アレクサンダーはただの編入生でしかない。

「え! 俺らって友だちじゃなかったのか?」

アレクサンダーは口に手をあてて「そんな」と大げさに悲しそうにしている。

そんな素ぶりをされると、なんだかこちらが悪者みたいではないか。

「そういうわけじゃ……」

勢いに押されて、つい否定する。

「じゃ、友だちだな」

アレクサンダーが一方的に決定してきた。

勝手に友だち宣言をされてしまい、ミハエルは呆気にとられる。

「そんな勝手に……それに、いきなり友だちだとは、ずいぶん軽薄だな」

そして、ああ、なるほど、と思う。

(こうやって級友たちを自分のペースに引きずり込んでいるのか)

ミハエルはアレクサンダーのやり口に納得した。

彼の人たらしぶり。

そういう上手さが彼をあっという間にこの教室に馴染ませたのだろうと腑に落ちる。

彼の長所なのかもしれないが、ミハエルにとってはただの図々しい奴である。

階段を降りて正面玄関に辿りつくと、ミハエルはそのまま校舎を出た。

空には羊の毛をそぎとったような雲が浮いている。
外はまだ明るいが家に着けばすぐに日が暮れて始めることだろう。

アレクサンダーがミハエルの顔を覗きこんだ。

「なあ、空を見上げるのって、癖なのか?」

「え?」

「校舎から出るとき、いつも空を見上げるよな」

ミハエルはそう指摘されて、初めて自分のくせに気づいた。
考えてみればたしかにそうかもしれない。
外に出るといつも空を見上げてしまう。

「まさか気がついていなかったのか?」

そう言われたところで、アレクサンダーのひとつ前の言葉にハタと引っかかる。

いつも(・・・)?」

アレクサンダーはしまった、と言わんばかりにサッと顔をそむけた。

「いつもってどういうことだよ? いつもこっそり僕のことを見ていたのか?」

アレクサンダーは顔をそむけたまま、はぐらかそうとしている。

「気色の悪い奴だな、変態野郎」

ミハエルはここぞとばかりにアレクサンダーに辛辣な言葉を浴びせかける。

ギムナジウムの門を出て、自宅までの石畳の道を少し歩きかえたところで、後ろからついてくるアレクサンダーに、いい加減腹が立ってきた。

ミハエルはアレクサンダーの方を振り返った。

「君んちは向うだろ。どこまでついてくるつもりなんだ」

「なあ、どうして帽子をそんなに目深にかぶるんだ?」

「人の話を聞いているのか」

まともに会話ができないのか。

ミハエルは大きなため息をついた。このままでは埒が明かない。

「……教えたら自分の家に帰れよ?」

ミハエルは条件を出して(たしな)める。

アレクサンダーはニコニコしている。

ミハエルは帽子のことについて、しぶしぶ口を開いた。

「……知らない人に勝手に触られるのが嫌なんだよ」

ミハエルはかつて登下校の道中に、道端ですれ違いざまに勝手に触れられることがあった。
それも一人や二人ではない。
たまにではあるが、登下校の最中に、前から、後ろから、面識のない者に通りすがりに頬や髪にふいに触られる。

ギムナジウムに入学して間もない、下級学年の頃のことである。

触れてくる者は男のこともあれば女のこともあった。
年端のいった者であれば、自分とあまり年の変わらぬ子であることもあった。

髪や頬に触れられて突然のことに怯えながら振り返ると、皆「見つかった」と言わんばかりの照れ笑いとほんの少しの申し訳なさをにじませながら「あんまりきれいだったから」と言い訳をしながら去っていく。

自分の意識しない所で人から視線を浴びることへの恐怖。

見知らぬ人々から不用意に触れられることへの気もち悪さ。

そして、人から不用意に視線が集まることで万が一にでも秘密がばれてしまうことが何よりも怖かった。

それ以降、対策として、ミハエルは外を歩く時は帽子を深くかぶることにした。

なるべく気配を消して、速足で家に辿りつこうとする。

髪と顔を隠していれば、他人に触れられることもないだろうと考えて。
最初から制帽を目深にかぶっていたわけではなかったのだ。

ミハエルはこれらのことを、アレクサンダーに訥々と話す。

アレクサンダーは顎に手を当てて納得したようだった。

「だから帰り道にあんなふうに人目につかないような歩き方をするのか」

帰り道にあんなふうに(・・・・・・・・・・)?」

ミハエルは、またもアレクサンダーの言葉にひっかかる。

なぜ自分が帰り道に人目につかないような歩き方をするということを、家の方角の違うアレクサンダーが知っているのだろう。

「君、もしかして僕の後をつけていたのか?」

アレクサンダーは再び、しまった、というふうに顔を背けた。