素敵な笑顔を咲かせる君と

 僕の胸元を掴んで、
 椅子から崩れるように落ちた花咲舞華は、
 いつも浮かべていた笑顔はどこにもなかった。

 むしろ、何かに怯えているようにも見えた。
 顔が青白く、呼吸が浅い。

 右目だけが青い美しい瞳から、恐怖が分かりやすく滲み出ていた。


「はな、……」


 かける言葉が見つからなかった。

 下手なことを言って、もっと追い詰めることになるかもしれないた思ったから。


『春、一ついいこと教えてあげる』


 その時、母親の言っていたことを思い出した。

 幼少期、僕が迷子になっていたのか、
 それとも大事なおもちゃを壊してしまったのか。

 理由は思い出せないが、とにかく手がつけられないほど大泣きしていた時。


『人ってね、心臓の音を聞くと落ち着くのよ。
 だから、今の春みたいに困っている人がいたら、抱きしめてあげてね』


 今の時代、簡単にセクハラだとか痴漢だとか言われる社会だ。
 そうなったら面倒くさい。

 でも、自分に対してのデメリットに気付いたのは、
 すでに花咲先輩を抱きしめた後だった。


「……おや」


 店長が驚いた顔をして僕を見ている。
 早く誤魔化さなければ。

 感情で動いたわけではないと、説明をしなければ。


「はっ……母親が、人の心臓の音を聞くと……落ち着くって……」


 言い訳に聞こえるだろうか。
 でも本当のことだ。

 母親は実際にそんなことを言っていた。
 そして僕を抱きしめてくれた。


「…………そうだね」


 店長はそれだけ言って、キッチンの奥の部屋に行った。

 色々誤解してると思うけど、
 多分今は静かな方が花咲先輩のためになる。


 でも、この寒い季節の厚手のコートを着ていては、
 どれだけ周りが静かでも心臓の小さな音なんて聞こえない。

 それでも、花咲先輩の肩の動きは少しずつ小さくなっていっていた。


「……はぁ」


 僕の腕を掴み、ゆっくりと体を起こして床に座った。

 彼女の目からは、もう恐怖は感じられなかった。


「落ち着きましたか?」


 そう聞くと、花咲先輩は静かに頷いた。
 それを見て、ようやく僕も安堵した。