素敵な笑顔を咲かせる君と

 その時、カランコロンという軽快な音が店内に響いた。

 誰かお客さんが来た合図だ。
 声の大きさに気を遣わなければならない。


「どうも、こんばんは」


 その挨拶は、聞き慣れた声だった。

 落ち着いていて、でもよく通って、
 透明でスルッと耳に入ってくる声。


「あれ、どうしたの? 一ノ瀬くん」


 おじさんが不思議そうな顔をして首を傾げた。
 聞き慣れた声だと思った。


 思い切って振り返ると、そこには見慣れた顔があった。

 手入れなんて言葉が辞書に載っていないかのような、無造作に眉毛の下まで伸ばされた黒髪。

 切れ長の真っ黒い目は黒曜石のように美しい。


「なんで花咲先輩がここに……」

「一ノ瀬くんこそ……」


 私は驚きを隠せなかった。
 一ノ瀬くんから目を離せない。


「僕は昨日、初給料を貰ったんでそれを使いに……」

「ここで働いてるのに!?」

「どこで使おうと僕の勝手でしょ」

「それはそう」


 私たちの高校はバイト禁止だ。校則で決められている。
 まぁ私はそれを黙認しているわけなのだが。

 一ノ瀬くんの家族は、「お金を稼ぐ大変さを知りなさい」ということでバイトをすることを許したらしい。
 別に貧乏というわけではないみたいだけれど。


「店長、僕はナポリタンで」


 一ノ瀬くんは私の隣のカウンター席に座って注文した。
 なぜ私の隣に?


「うん、分かった」


 そう言っておじさんはフライパンを出して調理を始めた。


「ねぇ一ノ瀬くん、私にも一口頂戴」


 この喫茶店で、私はケーキとコーヒーと紅茶しか食べたことがない。
 おじさんの他の料理を食べてみたい。なんなら全制覇したい。


「嫌ですよ、自分で頼んでください」

「ハヤシライスでお腹いっぱいになっちゃうじゃん!」

「知らないし」


 一ノ瀬くんはたまに敬語が外れる。
 むしろその時を待っている自分がいる。

 素で話してくれているみたいで嬉しいのだ。


「じゃあどうぞ、お二人とも」


 しばらくして、おじさんが二つのお皿をカウンターに乗せた。

 一つはたくさんのナポリタンが乗っている大きなお皿。
 二つ目は、少しの量のナポリタンが乗ってある小さなお皿。


「一ノ瀬くんのやつから少しだけ抜いた」

「なんで僕のから抜くんですか店長!」


 おじさんのささやかな気遣いと、
 なんだかんだ言って許してくれる一ノ瀬くんの二人といる時が一番落ち着く。


「あっははは! 一ノ瀬くん、少しもらうね!」

「チッ……どうぞ」

「舌打ちはお行儀悪いよ?」

「もっとでかく舌打ちしますよ」

「あっはははは! なんでよ! あっははは!」


 この二人と家族だったら、どれだけ幸せだっただろう。



 ナポリタンもハヤシライスも美味しかった。

 この喫茶店は安いし、お腹に余裕があればケーキとかも頼んでしまおうかとも思ったが、
 普通にお腹いっぱいになってしまった。


「ごちそうさまでした!」

「ごちそうさまでした」

「はい、お粗末さまでした」


 早く立たなければ。
 さっさとお会計をしてお店から出なければ。

 でもどうしてだろう。


(立てない……)


 家に帰りたくない。
 さっき家から出てから二時間も経っていない。

 きっと父親は起きている。
 もしかしたらリビングに来てしまっているかもしれない。

 そしたら家に私の居場所はない。


「花咲先輩、帰らないんですか」


 一ノ瀬くんはお財布を持って、すでにレジの前に行っている。

 早く立ち上がらないと。
 早くいつもみたいに笑って、笑顔で何か言わないと。


「ヒュッ……」


 息ができない。
 早く笑わないといけないと分かっているのに。

 酒瓶を持つ父親の顔が脳裏によぎる。
 泣いても謝っても酒瓶を振り下ろしてくる。
 ガラスの破片が飛び散って、カーペットがお酒で濡れる。

 母親は見て見ぬふり。
 まるでそこに娘がいないかのように振る舞って。


「花咲せ……」

「舞華ちゃん……?」


 一ノ瀬くんとおじさんが何か言っている。
 早く、早く呼吸を整えなければ。早く。


「ハッ……ハッ、たっ……」


 しゃっくり以外で横隔膜が痙攣したのは初めてかもしれない。
 泣きすぎてうまく呼吸ができなくなった時を除く必要があるけれど。


「花咲先輩、聞こえますか」

「舞華ちゃん、大丈夫?」


 一ノ瀬くんが肩を揺すっている。
 おじさんは私の背中をさすっている。

 この二人に心配はかけられない。
 おじさんは本当に心配そうな顔を浮かべている。

 早く安心させてあげないと。


「た……」


 そう思っていたのに、ようやく出せた言葉はこれだけだった。


「……たすけて」