傲慢な兄の身代わりだった公爵令嬢は、元傭兵の婚約者に一目惚れされたようです。

(うん。今後このおっさんのことは、詐欺師タヌキと呼んでやろう)

 密かにそう決意を固めたクリストファーをちらりと見たセドリックが、わずかに眉をひそめる。

「おまえは本当に、貴族社会のことをまるで学んでいないのだな。――オルブライト公爵家は、これほど魔獣被害が増加傾向にあるにもかかわらず、領内の人的・物的被害を最低限に抑え続けている名家だぞ」

 へえ、とクリストファーは顔を上げた。
 ここ数年、魔獣の活動範囲がじわじわと拡大していることは、傭兵たちの間にも噂ではなく、たしかな事実として伝わっている。
 実際、以前は魔獣出現の記録がなかった場所に、大型の魔獣が群れで発生するという事案も多発していて、魔獣討伐に従事する者たちはみな頭を悩ませていた。
 グラッドストン伯爵領も、今のところ魔獣被害は以前と変わらないレベルに抑えられているけれど、まったく油断できる状態ではない。

「公爵領っていったら、ここより随分広いんだろう? それなのに魔獣被害をキッチリ抑えられているなんて、そのオルブライト公爵サマってのは随分優秀な御仁なんだな」
「そうだな。エレオノーラ嬢も、幼い頃には自ら魔導武器を手に現場へ出ていらしたそうだ。フィニッシングスクールを卒業後は、生家で花嫁修業に勤しんでいらっしゃるとのことだが、美しいだけのご令嬢だと思ったら大間違いだぞ」

 クリストファーは、目を丸くした。

「貴族って、女の子でも現場に出るのか?」
「ああ。とはいえ、通常ならば女児にはさほど重い任務に就かせないものなんだが。ただ、オルブライト公爵家の嫡男――エレオノーラ嬢の兄君のマクシミリアンどのが、幼い頃は体の弱い方だったのでな。当時は彼の代わりに、エレオノーラ嬢が後継者の務めを果たしていらしたらしい」

 その説明に、クリストファーは顔も知らない婚約者に対し、少しだけ興味を抱く。
 彼にとって貴族の女性というのは、自分の姿を見るだけで顔を強張らせて後退る、とても臆病で弱々しい生き物だった。
 正直に言って、そういった反応をされるのはあまり気分のいいものではないし、そんな女性を妻に迎えなければならないことに、少なからずげんなりしていたのである。

 クリストファーが傭兵として身を立てるため、国内で三本の指に入る傭兵組織、シュトラール傭兵団に見習いとして入ったのは、領内の基礎学校を卒業した十五歳のときだ。
 それ以来、一般教養の習得や雑用に追い回される合間に、魔導武器の扱いをはじめとした魔獣討伐に必要なスキルを、一から体に叩きこまれた。
 文字通り、毎日命がけで行われた訓練と、休む暇もないほど忙しない生活の中で、ようやく一人前の戦力として認められるようになったのが、十八歳のとき。

(それからフリーになるまでの三年間は、ひたすら魔獣討伐に駆り出されてばっかりだったしなあ。……やっとフリーになって、報酬の半分を組織に持っていかれなくなって喜んだ途端にコレとか、我ながら意味がわからん人生だよな)

 幼少期のクリストファーは、祖父譲りの整った顔立ちのせいか、基礎学校の少女たちから好意的に見られることが多かった。
 しかし、十代前半の少年など、友人たちに「遊びにいこうぜー!」と言われれば、日が暮れるまで走り回って遊ぶものだ。
 毎日全力でバカをやって、疲れ果てて家に帰ると祖母が用意してくれていた温かな食事が待っている。
 思い返せば、かなり幸福な幼年時代を送っていたクリストファーは、甘酸っぱい青春の思い出など何ひとつ経験しないまま、シュトラール傭兵団の見習いになった。

 そのため、今までの人生でまっとうなコミュニケーションをしたことのある女性といえば、怒ると笑顔ですさまじい圧をかけてくる祖母か、同業だった屈強な女性傭兵くらいのものである。
 みな立派な女性たちだとは思うけれど、彼女たちが『貴族のお嬢さま』とかけ離れた存在であることは、間違いあるまい。
 今更ながら、近いうちにやってくるという婚約者とのコミュニケーションに不安を覚えていると、書類を整えながらセドリックが口を開いた。

「なんにせよ、チャーリーがあのような形で出奔した以上、オルブライト公爵家のご令嬢を我が家に迎えられるのは、本当にありがたいことだ。感謝せねばな」
「? そういうもんなのか?」

 首を傾げたクリストファーに、セドリックが深々とため息を吐く。

「当然だろう。オルブライト公爵家は、我が国でも有数の権勢を誇る名家だぞ。そのご令嬢を妻に迎えることができれば、おまえの出自や外見についていろいろと言ってきていた者たちも、揃って手のひらを返してくるだろうよ」
「えー。マジかよすげえな、公爵令嬢」

 何度か経験した社交の場は、クリストファーにとって非常に居心地が悪いものだった。
 この家を継ぐと決めた以上、そういった社交の場から、いつまでも逃げていられないことはわかっている。
 今のところは、魔獣討伐任務を理由にしてほとんどの誘いを断っているけれど、まさか公爵令嬢との婚約、ひいては婚姻に、そんな特典がついてくるとは思わなかった。
 セドリックが、ぱっと声を明るくしたクリストファーを、じろりと見る。

「オルブライト公爵は我が家の苦境をご覧になり、少しでも我が家の立場がよくなるよう、此度の縁談を整えてくださったのだ。十日後、公爵ご夫妻とエレオノーラ嬢が我が家にいらっしゃる。エレオノーラ嬢はそのまま我が家に滞在なさるから、そのつもりで準備しておけ」
「……は?」

 クリストファーは、目を丸くした。

「お嬢さんが、この屋敷に? なんで?」
「先方からのお申し出でな。エレオノーラ嬢が少しでも早く我が家に入ったほうが、世間の興味もチャーリーの醜聞からおまえたちの縁談に向くだろう、と」
「ええー……」

 なんということだろう。クリストファーは、どん引きした。
 自分に婚約者ができたこと自体、つい数分前に聞いたばかりだというのに、十日後の顔合わせから即同居とは、貴族って本当によくわからない。

(なんか……婚約者のお嬢さんに、申し訳なくなってきたな)

 要するに今回の縁談の目的は、オルブライト公爵家がグラッドストン伯爵家に恩を売ることであり、そのために娘を『傭兵上がりの無頼者』に嫁がせようということだろう。
 クリストファー自身が望んだことではないとはいえ、その恩恵を受けるのが主に自分であることを考えると、なんだか尻の据わりが悪いような心地になる。

 政略結婚が貴族の常だということはわかったが、自分の婚約者となったエレオノーラは、まだ成人したばかりの十八歳だという。
 これからいよいよ社交界にデビューするというときに、親同士の思惑で故郷から遠く離れた見知らぬ土地に送られるとは、不憫にもほどがあるのではなかろうか。

(ちょっと前まで、フィニッシングスクール? だかで、友達と楽しく女学生をやっていたんだろうになあ……)

 年齢は三歳しか違わないようだが、十五歳で家を出て自活していたクリストファーにとって、年下の貴族の少女というのは、完全に未知なる生き物である。
 気の毒な彼女が、この屋敷で少しでも居心地よく過ごせればいいとは思うけれど、いったい何をどうすればいいものやら、まるでさっぱりわからない。

 一瞬、「助けて、ばあさん!」と祖母に頼りたくなってしまったが、こんなことを相談されては祖母も困るばかりだろう。
 とはいえ、この屋敷の内向きを取り仕切っているのは、セドリックの妻である伯爵夫人だ。
 この家に迎えられたときに一度挨拶をしたきりだが、長年これだけ大きな屋敷を問題なく切り盛りしてきた女性である。
 少し会話をしただけで頭のよさがわかるほど有能な彼女ならば、公爵家のご令嬢を迎える準備も、恙なく行ってくれるに違いない。

(……うん。とりあえず、余計なことは何もしないでおこう)

 何しろクリストファーの貴族歴は、たったの二ヶ月なのである。
 そしておそらく、『政略結婚における顔合わせの場』というのは、貴族の素人が手出しをしていい場面ではない。今まで数多の修羅場をくぐり抜けてきた傭兵の勘が、そう言っている。
 別に、面倒くさくなったわけではない。
 ただ単に、適材適所という素晴らしい言葉の意味を、しっかりと理解しているだけである。