――顔も知らない父親は、立派な貴族のご当主さまでした。
そんな、幼い少女がままごとで口にするような夢物語が、突如逃げようのない現実として我が身に降りかかったクリストファーの母は、とても美しい人だったらしい。
らしい、というのは、クリストファーが物心ついた頃にはすでに彼女はそばにおらず、祖父母が彼を養育してくれていたからだ。
母はクリストファーを産んですぐに儚くなったそうで、葬儀の際には父親だという男から多額の弔慰金が送られてきたという。
その後、クリストファーが十五歳で家を出るまで、養育費として毎月まとまった金額が送られてきていたため、祖父母との生活はかなり楽なほうだったと思う。
祖父母はその男について「先方との約束だから」と一切教えてくれることはなかった。そのため、自分に『親』という存在がいないことを、少し寂しく思ったこともある。
けれど、祖父母は心からクリストファーをかわいがって育ててくれたし、よくないことをすればきちんと叱ってもくれた。
幼い頃から体を動かすことが得意で、また平民としては破格の魔力適性を備えていたクリストファーは、ごく自然に魔獣討伐を生業とする傭兵になる道を選んだ。
たしかに危険な仕事ではあるけれど、それだけ高い報酬を得られるし、何より魔獣被害が年々広がっている以上、こういった方面の手に職があれば食いっぱぐれる心配がない。
ただ、実戦に出るようになって間もない頃のこと。
仲間を庇って顔に目立つ傷を負ってしまった際、祖母からしみじみと「顔だけが取り柄じゃなくて、よかったわねぇ」と言われたときには、もうちょっとほかに言い様はないのかと憮然としたものだ。
そのとき右の頬から耳にかけてざっくりと入った太い爪痕は、結局今も消えることなく残っている。
とはいえ、男の顔に多少の傷があったところで、別に問題など何もない。
傭兵という仕事をしていれば、こんなことなどいくらでもある。
初対面の相手にぎょっとされてしまうことはあるけれど、聴覚に異常はないし、特に不自由も感じない。
フリーの傭兵としてそこそこ名が売れるようになった頃には、自分の顔に傷があることすら忘れかけていたのだが――。
「おまえの婚約者となったエレオノーラ・オルブライト公爵令嬢は、フィニッシングスクールを優秀な成績で卒業された、大変美しく可憐な女性だ。おまえの顔の傷のことはすでに先方に伝えてあるが、ご挨拶の際にはくれぐれも粗相のないようにな」
「……おい、おっさん。オレはあんたに『グラッドストン伯爵家を正しく継ぐ者がいなければ、後継者争いに巻きこまれた領民たちが、悲惨な目に遭うのかもしれんのだぞ!』とか言って脅されて、仕方なくこの家に来たんだが? 婚約者って、どういうことだ? オレは、自分の嫁すら自分で選べないのか?」
二ヶ月ほど前。
なんの先触れもなく、クリストファーの住まいである小さな借家にやってきたのは、この土地の領主であるグラッドストン伯爵本人だった。
突然の雲上人のお出ましにぽかんとするクリストファーに、あろうことか自らを父親だと言って名乗った彼――セドリック・グラッドストンは、とても憔悴しきった様子で言ったのだ。
――知っての通り、きみの兄が出奔したせいで、現在このグラッドストン伯爵領は、前代未聞の危機に瀕している。
――頼む。私の血を引く息子として、きみが我が伯爵家を継いではくれまいか。
――このままでは、いずれきみの祖父母も含む領民たちが、苦しい生活を強いられることになるだろう。
ほかにもいろいろと言っていたけれど、今から思えばものすごくタチの悪い脅迫である。
特に、クリストファーにとって大切な家族である祖父母の安全を盾に取るような発言は、鬼畜の所業と言ってもいいのではなかろうか。
よって、王宮での魔力波長検査でセドリックとの親子関係はしっかりと証明されているものの、クリストファーはいまだに彼のことを『おっさん』と呼んでいる。
こんな腹黒いタヌキのようなおっさんを、プライベートでまで『父上』などと呼んでたまるか。
ある日突然、執務室に呼び出されるなり婚約者の存在を告げられ、思わず半目になったクリストファーに、セドリックは眉ひとつ動かさずに答えた。
「当然だろう。貴族の家を継ぐとは、そういうことだ。おまえがこの家の後継者となる宣誓書にサインした以上、その義務はきちんと果たしてもらうぞ」
「……そういうことは、サインする前に説明してもらいたかったよなあ」
思わずぼやいたクリストファーだったが、執務室で書類をめくっているときのセドリックに何を言っても無駄だということは、すでに学習している。
せめてもの抵抗としてわざとらしくため息を吐き、どっかりとソファに腰掛けながら彼に問う。
「で? そのなんとかいう公爵家のお嬢さん、年はいくつなんだ?」
「十八歳だ。おまえの三歳年下だな」
ふうん、とクリストファーは頷く。
「まあ、とんでもない年増やガキを押しつけられなかっただけマシってやつか。しっかし、オレみたいな『傭兵上がりの無頼者』に嫁いでくれるなんて、また酔狂なお嬢さんだな」
この屋敷に入って以来、何度か顔見せ目的で連れていかれた社交界で、自分がどのように噂されているかは知っている。
――あんな醜い傷痕を、よく人前に晒せたものだ。
――ろくな挨拶もできないような者を後継者に据えるとは、グラッドストン伯爵は随分とお疲れらしい。
――あれほど粗野で無作法な若者を教育しなければならん伯爵夫人が、本当にお気の毒だな。
聞こえよがしにそんなことを囁く者たちのほうが、よほど無作法でみっともないと思うのだが、どうやら貴族と平民の価値観というのは根本から違っているらしい。
一応、はじめのうちは『一度やると決めたことには、最後まで真剣に取り組みなさい』という祖父の教えに従い、多岐にわたる貴族教育に挑戦しようとはしてみたのだ。
しかし、語学や歴史などの一般的な座学はともかく、礼儀作法や貴族社会における暗黙の了解、貴族年鑑や細かすぎる勢力関係図などは、完全にクリストファーにとって鬼門だった。
特に『貴族らしい』格式張った挨拶や振る舞いなどは、平民として育った彼には「スイマセン、勘弁してください……!」と、全身がムズ痒くなるほど小っ恥ずかしくなってしまう。
どうにか最低限の挨拶だけはできるようにはなったけれど、それが大変ぎこちないものになってしまうくらいは、大目に見てほしかった。
元々、伯爵家当主の最も重要な役割が、領内の魔獣討伐任務だと聞いて、それならいいか、と受けた話だったのである。
今更言っても仕方がないこととはいえ、これほど多岐にわたる面倒な学習や、平民的羞恥心との闘いがあるのなら、前もって教えておくべきだと思う。
それがわかっていれば、絶対に後継者の話を受けたりはしなかったはずだ。
そんな、幼い少女がままごとで口にするような夢物語が、突如逃げようのない現実として我が身に降りかかったクリストファーの母は、とても美しい人だったらしい。
らしい、というのは、クリストファーが物心ついた頃にはすでに彼女はそばにおらず、祖父母が彼を養育してくれていたからだ。
母はクリストファーを産んですぐに儚くなったそうで、葬儀の際には父親だという男から多額の弔慰金が送られてきたという。
その後、クリストファーが十五歳で家を出るまで、養育費として毎月まとまった金額が送られてきていたため、祖父母との生活はかなり楽なほうだったと思う。
祖父母はその男について「先方との約束だから」と一切教えてくれることはなかった。そのため、自分に『親』という存在がいないことを、少し寂しく思ったこともある。
けれど、祖父母は心からクリストファーをかわいがって育ててくれたし、よくないことをすればきちんと叱ってもくれた。
幼い頃から体を動かすことが得意で、また平民としては破格の魔力適性を備えていたクリストファーは、ごく自然に魔獣討伐を生業とする傭兵になる道を選んだ。
たしかに危険な仕事ではあるけれど、それだけ高い報酬を得られるし、何より魔獣被害が年々広がっている以上、こういった方面の手に職があれば食いっぱぐれる心配がない。
ただ、実戦に出るようになって間もない頃のこと。
仲間を庇って顔に目立つ傷を負ってしまった際、祖母からしみじみと「顔だけが取り柄じゃなくて、よかったわねぇ」と言われたときには、もうちょっとほかに言い様はないのかと憮然としたものだ。
そのとき右の頬から耳にかけてざっくりと入った太い爪痕は、結局今も消えることなく残っている。
とはいえ、男の顔に多少の傷があったところで、別に問題など何もない。
傭兵という仕事をしていれば、こんなことなどいくらでもある。
初対面の相手にぎょっとされてしまうことはあるけれど、聴覚に異常はないし、特に不自由も感じない。
フリーの傭兵としてそこそこ名が売れるようになった頃には、自分の顔に傷があることすら忘れかけていたのだが――。
「おまえの婚約者となったエレオノーラ・オルブライト公爵令嬢は、フィニッシングスクールを優秀な成績で卒業された、大変美しく可憐な女性だ。おまえの顔の傷のことはすでに先方に伝えてあるが、ご挨拶の際にはくれぐれも粗相のないようにな」
「……おい、おっさん。オレはあんたに『グラッドストン伯爵家を正しく継ぐ者がいなければ、後継者争いに巻きこまれた領民たちが、悲惨な目に遭うのかもしれんのだぞ!』とか言って脅されて、仕方なくこの家に来たんだが? 婚約者って、どういうことだ? オレは、自分の嫁すら自分で選べないのか?」
二ヶ月ほど前。
なんの先触れもなく、クリストファーの住まいである小さな借家にやってきたのは、この土地の領主であるグラッドストン伯爵本人だった。
突然の雲上人のお出ましにぽかんとするクリストファーに、あろうことか自らを父親だと言って名乗った彼――セドリック・グラッドストンは、とても憔悴しきった様子で言ったのだ。
――知っての通り、きみの兄が出奔したせいで、現在このグラッドストン伯爵領は、前代未聞の危機に瀕している。
――頼む。私の血を引く息子として、きみが我が伯爵家を継いではくれまいか。
――このままでは、いずれきみの祖父母も含む領民たちが、苦しい生活を強いられることになるだろう。
ほかにもいろいろと言っていたけれど、今から思えばものすごくタチの悪い脅迫である。
特に、クリストファーにとって大切な家族である祖父母の安全を盾に取るような発言は、鬼畜の所業と言ってもいいのではなかろうか。
よって、王宮での魔力波長検査でセドリックとの親子関係はしっかりと証明されているものの、クリストファーはいまだに彼のことを『おっさん』と呼んでいる。
こんな腹黒いタヌキのようなおっさんを、プライベートでまで『父上』などと呼んでたまるか。
ある日突然、執務室に呼び出されるなり婚約者の存在を告げられ、思わず半目になったクリストファーに、セドリックは眉ひとつ動かさずに答えた。
「当然だろう。貴族の家を継ぐとは、そういうことだ。おまえがこの家の後継者となる宣誓書にサインした以上、その義務はきちんと果たしてもらうぞ」
「……そういうことは、サインする前に説明してもらいたかったよなあ」
思わずぼやいたクリストファーだったが、執務室で書類をめくっているときのセドリックに何を言っても無駄だということは、すでに学習している。
せめてもの抵抗としてわざとらしくため息を吐き、どっかりとソファに腰掛けながら彼に問う。
「で? そのなんとかいう公爵家のお嬢さん、年はいくつなんだ?」
「十八歳だ。おまえの三歳年下だな」
ふうん、とクリストファーは頷く。
「まあ、とんでもない年増やガキを押しつけられなかっただけマシってやつか。しっかし、オレみたいな『傭兵上がりの無頼者』に嫁いでくれるなんて、また酔狂なお嬢さんだな」
この屋敷に入って以来、何度か顔見せ目的で連れていかれた社交界で、自分がどのように噂されているかは知っている。
――あんな醜い傷痕を、よく人前に晒せたものだ。
――ろくな挨拶もできないような者を後継者に据えるとは、グラッドストン伯爵は随分とお疲れらしい。
――あれほど粗野で無作法な若者を教育しなければならん伯爵夫人が、本当にお気の毒だな。
聞こえよがしにそんなことを囁く者たちのほうが、よほど無作法でみっともないと思うのだが、どうやら貴族と平民の価値観というのは根本から違っているらしい。
一応、はじめのうちは『一度やると決めたことには、最後まで真剣に取り組みなさい』という祖父の教えに従い、多岐にわたる貴族教育に挑戦しようとはしてみたのだ。
しかし、語学や歴史などの一般的な座学はともかく、礼儀作法や貴族社会における暗黙の了解、貴族年鑑や細かすぎる勢力関係図などは、完全にクリストファーにとって鬼門だった。
特に『貴族らしい』格式張った挨拶や振る舞いなどは、平民として育った彼には「スイマセン、勘弁してください……!」と、全身がムズ痒くなるほど小っ恥ずかしくなってしまう。
どうにか最低限の挨拶だけはできるようにはなったけれど、それが大変ぎこちないものになってしまうくらいは、大目に見てほしかった。
元々、伯爵家当主の最も重要な役割が、領内の魔獣討伐任務だと聞いて、それならいいか、と受けた話だったのである。
今更言っても仕方がないこととはいえ、これほど多岐にわたる面倒な学習や、平民的羞恥心との闘いがあるのなら、前もって教えておくべきだと思う。
それがわかっていれば、絶対に後継者の話を受けたりはしなかったはずだ。
