ちょっと天然の女子はきらきらでピカピカになる

 おじさんは、お腹が大分、でていました。
 傍らには、なぜか、水の張られた大きな水槽が、キャタピラ式の大きな電動台車の上に載っています。

「あれは、アザラシでも、オットセイでもないよ。アシカだ」 

 おじさんはリクちゃんと私の話を聞いていたようです。
 盗み聞きでしょうか。
 嫌だわぁ。

「アザラシは岩の上をあんなふうに歩けない。オットセイは歩けるんだけど、あんなふうにつるんとした体はしていない。オットセイは毛深いんだ」

 リクちゃんは大きく目を見開いて、しばし、おじさんをじっと見ていましたが、
「動物博士……ですか?」
 ひとりごとのように訊ねました。

 おじさんは、その大きなお腹をゆっさゆっさと揺らし、いかにも愉快そうに笑います。

「僕は、シズク水族館の人間だよ」

 おじさんは、くるりと背中を私たちに向けました。

 バックプリントです! 
 ジンベエザメの絵と一緒に、「シズク水族館」とあります!

 シズク村立シズク水族館は、チェリー川の下流域にある県下随一の水族館です。
 ジンベエザメも、マンボウも、ラッコも、シロイルカもいます。
 魚料理が嫌いな人でも楽しめる観光スポットです。

 私も、家族で何度か行っていますが、リクちゃんと二人きりで行けたらいいなぁなんて、秘かに思っています。
 いちゃいちゃカップルも楽しめる観光スポットです、たぶん。

「シズク水族館には、十一頭のアシカがいるんだ。シズクアシカのイレブンっていわれてるんだけど、その中で一番、芸達者なのが、ときどき、脱走してね。昨日の夜もまた、やられたんだよ」

 おじさんは、川の畳石の上のアシカを見ながら言います。

「あのアシカに、名前はあるんですか?」

 リクちゃんがまた訊きました。
 
 リクちゃんは、名前が気になるようです。
 無理もありません。
 アザラシでも、オットセイでもない、芸達者なアシカに、名前を考え続けてきたリクちゃんですから。

「チッチャというんだ」

 変わった名前、と私は思いました。
 リクちゃんの名前の付け方とはどうも違うようです。

「なんで、チッチャなんですか?」

 リクちゃんは、さらに訊きます。

「オットちゃんがよかったかな?」

「いえ、オットセイじゃないし……」

 リクちゃんが顔を赤らめると、おじさんは小さく笑い、お腹をゆっさと揺らしました。

「水族館では、アシカ、十一頭、いつも点呼をとるんだけどね、チッチャは一番声がちっちゃいんだよ」

「名前を呼ぶと、返事するんですか?」

「そうだよ」

「すげーっ!」

 リクちゃんは、身をのけぞらせて、声をあげました。
 
 私は、身をのけぞらせそうになって、すごーいって思いました。

「いや、本当にすごいのは、チッチャなんだ。他の連中は、『アウッ』とか、『オウ』とかって返事なんだけど、チッチャは、『はい、いますよ』って返事するんだ。ちっちゃな声でね」

「ウッソだー!」

 リクちゃんが大笑いして、私も大笑いしました。
 うっそだーと私も思ったんです。
 だって、ときどき、テレビのペット番組でやっていますよね。犬や猫の飼い主が、うちの何とかちゃんは、話せるのよーなんて。
 で、実際に、その何とかちゃんにしゃべってもらうと、これが、かなり微妙なんですよね。
 ごはんを「ニャニャン」とか、困ったを「ワンワンワワン」とか。
 きっと、おじさんは、私たちのことを、子供だと思って、からかっているのでしょう。

「チッチャの返事が、いつも、ちっちゃいから、担当の飼育員も、返事を聞いたものと、つい思いこんじゃうんだ。全頭、そろってる、問題なしって。それで、昨夜も、チッチャがいなくなってることに、しばらく、誰も気づかなかったんだ」

 おじさんは、私たちを等分に見て、にこにこします。

「じゃあ、今、チッチャを呼べば、返事するんですか?」

 リクちゃんは、にやにやしていました。
 私もにやにやしました。
 二人とも、おじさんの話を信用していなかったんです。

「おーい! チッチャー!」

 おじさんが川に向かって、大声をあげました。
 すると、畳石の上のアシカがその動きをぴたりと止めたではありませんか。
 おじさんのほうに向きなおり、おじさんをじっと見ます。

 アシカを取り巻いていた人たちも、その変化に驚いたようでした。
 ざわついていた声が次第にやみ、そして、とうとう、辺りは、しんと静まりかえってしまいました。
 
 川の流れる音だけがします。

 アシカは微動だにしません。

「出席番号! 九番! チッチャ!」

 おじさんが叫びました。

「はい、いますよ!」

 女の人の声! 

 私は、耳を疑いました。

 アシカは川に飛びこむと、水中をすべるように泳ぎ、河原へとあがってきました。

 おじさんが電動台車と一緒に、アシカを迎えます。

 しばらく、時が止まったようでした。
 川が流れる音も、私は聞かなかったような気がします。
 いえ、アシカとおじさん以外は、誰も、何も、動いていなかったのではないでしょうか。
 辺りは、しんと静かです。

 私は、ごくりとつばを飲み込みました。

 はい、いますよ。

 確かに、私、聞きました。
 
 でも、それはちっとも小さな声なんかじゃなくて、はっきりとした、とても大きな声でした。
 明るくて、しっかりと芯のある、そんな女性の声でした。

 アシカのチッチャは、濡れた体を、きらきら光らせていました。おじさんに手伝ってもらいながら、水槽の中へと入っていきます。

 おじさんは、私ににこりとすると、電動台車のスイッチをいれました。
 キャタピラがゆっくりと動きだします。

 チッチャが、水槽から、ちょこんと、その愛らしい顔をだしました。
 
 振り返って、私と目が合いました。

 チッチャの目は、きれいな、やさしい目でした。

「やっぱり……かっこいい……」

 リクちゃんが、ややかすれた声をだしました。

 と、リクちゃんは、尻もちをついていました。
 腰をぬかしたようです。

 私は、おじさんの背中と水槽をちらと見てから、リクちゃんに訊ねました。

「聞いた?」

 リクちゃんは、何回もうなずきます。
 
 私も、しっかりと、うなずき返しました。

 おじさんは、電動台車を、林道の出入り口に止まっている白いバンの後ろに寄せています。

 バンのボディにも、ジンベエザメの絵と一緒に「シズク水族館」という文字。

 おわかれなんだ……。

 私は、急に、さびしい気持ちがしてきました。
 チッチャと一緒に泳ぎたかったという思いも湧いてきました。

 おじさんが運転席に乗りこみ、エンジンがかかります。
 と、おじさんがこちらに顔を向け、ドアガラスがおりました。

「聞いたろうー?」

「聞きましたー! チッチャ、すごーい!」

 私は、大きく手を振り、飛び跳ねました。

 おじさんは愉快そうに笑っていました。
 きっと、そのお腹はゆっさゆっさと揺れていたことでしょう。